禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

仏教の原点に帰る 「禅と茶の集い」だより(101)

今日(2月12日)は第2週なので7時から2炷香の坐禅をしました。
 
前回と同じように、坐禅をする前は体をできるだけほぐすようにしました。
 
股関節を柔らかくしておくと坐禅を組むのもだいぶ楽になります。
 
体を柔軟にしておくことは、日常生活でも大切なように思います。
 
 
先週から、鈴木俊隆老師の「禅マインド ビギナーズ・マインド」を読み始めましたが、禅がアメリカへ渡ったということはかなり画期的なことだと思いました。
 
そこから逆に、その前に日本にはどのように仏教が伝わってきたのかということに改めて興味が湧きました。
 
 
仏教は、釈尊から始まったのは誰もが認めることです。
当時は交通手段も通信技術も発達していなかったわけですから、インドの限定的な地域でしか教えは広まっていませんでした。
 
また、文字はあったようですが、釈尊は本を残したわけでもないので、いったい何が説かれていたのかは、確定的ではないようです。
 
もちろん、日本に限らず仏教の各宗派は自分の宗派こそ釈尊の正しい教えを伝えているといいますが、表面的にはとても同じ仏教だとは思えないような教えがあります。
 
聖書やコーランのような誰もがよりどころとするような一つの経典がないのも仏教の特徴です。
その時代や地域によっていろいろな釈尊の物語が語られ、釈尊以外の仏様もたくさん登場してくる歴史をみると、これじゃあなんでもありじゃないのとさえ思えてしまいます。
 
日本に伝わった仏教は、ほとんど中国経由の大乗仏教です。
そのときの中国で盛んだった仏教がさまざまな形で伝わってきました。
 
それがまた、日本でいろいろな解釈が加えられ、神道や民族的な宗教とも融合しながら今の日本の仏教になったわけです。
 
細かく書き出すときりがないほどの教えがあるのでここでやめます。
 
坐禅もたくさんある仏教の流れの中のひとつです。
 
自分がやっているから贔屓目に見てしまうのかもしれませんが、釈尊は哲学的な思考や苦行の果てにそれらを捨て、坐禅をして悟りを開いたわけですから、坐禅釈尊の原点に最も近いものだと思います。
 
日本には明治以降になって初めて釈尊の説いた最も古い経典とされる原始仏典が入ってきました。
大乗の仏典とはかなり違います。
 
スリランカやタイなどで広まっている上座部仏教の僧侶からみれば、日本の僧侶なんて僧侶じゃない、大乗仏教釈尊の教えではないという話もあります。
 
確かに、釈尊は、自分の外に神や仏の存在を認めるような教えは説いていません。
 
でも、それだから、大乗仏教は仏教ではないという話にはならないし、仏教は東に進みながら発展を続けてきたという見方もできると思います。
 
そして、今はネットであらゆる人があらゆる仏教に接することができます。
 
日本にも、上座部仏教チベット仏教が新しい仏教として入ってきました。
 
ある意味では、それらを俯瞰して自分の立ち位置を見るいい機会かもしれません。
 
でも、原点は釈尊なので、やはりいつもそこに帰るということが必要だと思います。
 
私は、神格化されたり仏像となった釈尊ではなく、人間として苦悩しその果てに悟りを開いたという釈尊その人が好きです。
 
 
来週は、2月19日。
6時から読書会、お茶、坐禅です。
 
坐禅の時間は7時半頃からです。
途中からの参加も大丈夫ですので、どうぞお越しください。
 
義存 合掌