禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

東祥寺 宇野和尚さんの法話

本日(9/16土)は地元で開催された終活セミナーで印西市にある東祥寺(曹洞宗)の宇野和尚さんの法話をうかがってきました。

テーマは「命とこころの話」
まずは時節柄、彼岸の説明から入りましたが、途中で今回のテーマ説明です。
「人は死んだらどこに行くの?」まさしく私が小学生のころから自問自答してきた内容でした。

まずはお釈迦様の悟りの第一段階、「人生には思い通りになることとならないことがある。」ということ。
「思い通りにならないこと」には老いる、病気になる、死ぬ、そして思い通りには生まれてこれないことこの生老病死が四苦、それに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦が加わって八苦いわゆる四苦八苦となる。

「苦」というのは苦しいというより思い通りにならないこと、思い通りにならないから苦しいんだという説明がありました。

次の悟りの第二段階は、その思い通りにならない「ままならないこと」に抵抗し続けるのではなく、それを受容して上手く付き合っていくことが大事であるとのお話でした。

そしてお釈迦様の今わの際に弟子たちに伝えた「人間の生きた証はしたこと、言ったこと、考えたことに残る思いや願いを共につないでいくこと」そのことで共に生き続けることができる、、というお話でした。
身近な人の死に際して、残った人たちの死(2人称の死)の受け止め方に詳しい解説がなされました。

またそうした伝承ですが、人間は正しいことはなかなか伝わらず、間違ったことほど真似されやすいことを道元禅師の「花は愛憎に散り 草は棄嫌におふる」に例えて戒めがありました。

最後に参加者から質問があったのですが次々と挙手される中、4人目の方から「死ぬと個人の魂は無くなるのでしょうか?」という1人称の死についての問いがありました。

この問いには宇野和尚さんも一呼吸置き、ゆっくりとご自身の死生観をご披露いただきました。

亡くなったあと、、のイメージ

人は無くなったら何処にいくのか・・・それは夜の深い海の中
風もなく、波も穏やかで、空には月があり、それが水面の映っている
イメージ 1
 
そして自分はその中の水滴の一粒であり、死と同時に形は失われ海に溶け込んでいる。自分が海であり、海が自分である。
全部がひとつの命であり、魂である。

でもいずれまた、海から蒸発し、一粒の水滴となり、山上に落ち、小川となって急流を超え、時には濁流にのまれながら岩にぶつかり、そしてまた大海に注ぐこととなるかも知れない。。。。とお話しいただきました。

現在、禅と茶の集いで輪読している禅マインドビギナーズマインドの第23章 涅槃とは瀧のように出てくる「一滴」に通じるお話で、個人的には深く感銘したご法話でした。

東祥寺さんでも参禅会されているそうなので、ぜひ参加してみたいと思った次第です。(Ym)