禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

調息山七合目 いざ頂上へ 1・・・頂上を見ながら、すすきヶ原を行く・・・白く立ち枯れた木々のある沼地を通る(白骨の坐禅を味わう)

  ○呼気・吸気共に、「赤丸」と両手小指の重なった部位の感覚に繋意
   
*これ以降は、「法界定印」内での繋意になります。    

*両手の小指の重なりは、他の指(第2・3・4指)の重なりが接触している処から少し離れ、第4指の重なりとの間に隙間が生じます。この時の緩みが重要です。    

*表題の「頂きを見ながら、すすきヶ原を行く」というイメージは、坐り始めには良いのですが、坐って行くうちには体性感覚のみに集中するようにしてください。この段階では、イメージの力はできるだけ避け、大脳辺縁系の機能を棚上げすることが重要な意味を持っています。    

*舌の位置は、「レ」に近くなります。


  ○呼気・吸気共に、「赤丸」と両手各指の重なった部位の感覚に繋意

*白く立ち枯れた木々のある沼地には、餓死して坐禅のまま白骨化した修行者の塚があります。この沼地を通る時その修行者を偲んで、白骨の坐禅を味わうことになっています。

*その方法は次の通りです。両手の各指の重なりは、他の指の重なりから少し離れそれぞれの指の重なりに隙間が生じるようにします。
そして右手の第2指から第5指で、左手の第2指から第5指の背(骨の処)に繋意します。
勿論赤丸も同時に繋意しています。(「ボンヤリと赤丸」が適しています)
白骨化した法界定印が、白骨化した両脚の間に収まっているという感じになれば、意識が自然と下がり、安定感が生まれます。
この坐法は、夏 木陰等(緑陰禅のような場)で風が吹き通るような所で味わうのも、趣があります。    

*但し白く立ち枯れた木々のある沼地とか、白骨の坐禅等というイメージは坐り始めには良いのですが、坐って行くうちには体性感覚のみに集中するようにしてください。この段階では、イメージの力はできるだけ避け、大脳辺縁系の機能を棚上げすることが重要な意味を持っています。
     
「ボンヤリと赤丸」と左手の指の骨の感覚と隙間の空気と両脚とに繋意してください。⑬やINTERMISSIONで述べました両脚による鉢巻効果の上に白骨化した法界定印が納まっているという感じです。
     
そして肉なる身体のしがらみから抜け出して、只々骨のみの感覚になりたる時の、何とも言えない幸せ感(解放感)を少しでも味わって頂ければと、思います。
     
この坐法によって、人の死の一つの形が追体験できます。しかも不思議にも、死の恐怖が消滅してくることさえも感じられます。
     
禅では人の死を「帰寂・・・寂に帰る」といいますが、この技法によって「帰寂」が体得できれば、大成功といえます。

*舌の位置は、「ル」に近くなります。

*人は、自分の死に対する恐怖を感じ易い生き物です。
映画『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督)の中で、宇宙船ディスカバリーのコンピューター HAL9000が乗組員の命を奪うという「反乱」を起こします。それに対して船長が、コンピューターの思考回路をシャットダウンするためにモジュールを次々と停止させていきます。この時HAL9000が「私の心がなくなりそうで・・・それがわかる・・・私は怖い」等といいます。
このシーンは、コンピューターが人間と同じ感情(ダマシオの定義では「情動」ですが)を持ったということで、見る者に衝撃を与えました。

今一つ別の視点からの話です。
一時大変評判になったヨースタイン・ゴルデル著の『ソフィーの世界』の中のエピクロス学派の項にある文章です。
「「なぜ死をおそれるのか」とエピクロスは言っている。「わたしたちが存在するあいだ、死は存在しないし、死が存在するやいなやわたしたちはもう存在しないのだから」」と。これに対してソフィーは「まったくだ。死んでいることで苦しんでいる人なんて、みたことないよね」と、思うのです。

以上二つの内容は、一見矛盾しているかのように見えて、いずれも真実です。
エピクロスの言葉は理屈では解っても、実際には「死ぬのは怖い」と思うのが殆んどの人の気持ちでしょう。
このような問題に対して、坐禅の修行はどのような解決策を示そうとしているのでしょうか。
これについては、ダマシオのいう中核自己と自伝的自己という二つの自己の概念による説明が有効です。

「死の恐怖」を感じるのは、大脳辺縁系と密接な関係があり、「過去・現在・未来を考える」特性を持った自伝的自己によるものです。一方の中核自己の特性は「いま・ここ」のみという訳ですから、「死の恐怖」の対抗策としては、自伝的自己を完全に棚上げにして、中核自己に置き換えればよいということになります。

禅の指導者が修行者に対して言う「布団上で死んで来い!」ということの意味は、「中核自己に徹せよ!}ということなのです。
夜 他人が寝静まった後に独坐し、日中大勢で坐っていた時に気が付かなかった不安(HAL9000が感じた様に、自伝的自己が消えていくことに耐えられないと悲鳴をあげる)に対しては、「中核自己にこの身心を委ね、中核自己の存在感と現実感に安住する技」が身に付くまで坐禅の力を深めて行かなければならないのです。
先師磨甎庵劫石老漢がよく言われた「一度死んだら、二度と死なん!」ということを本当に体得するためには、耕雲庵老大師がいわれた「後期の数息観」(当マップでは六合目以後)に徹しないといけません。