禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

調息山十合目 ついに頂上へ・・・「止」の体得・・・只管打坐 1

  ○呼気・吸気共に、只々「赤丸」に繋意    

*赤丸への繋意のためには、この部位の温かさ・拍動・シビレ・時には痛みを感じて、それを保持してください。

*九合目の時の場合より、両親指がより臍下丹田(気海)に近づきます。親指の橈骨側が腹部に接しても構いません。
この時⑩で述べました「押し込む 赤丸」の技法が適しています。
特に吸気の時、気海に向かって1〜2mm程度押し込む感覚を保持していることが効力を発揮します。    

*呼吸の出入は、只々赤丸の一点からのみで行ってみてください。
もし息が詰まるような感じになるようでしたら、次の十合目 別峰に進んでください。    

*ここが「止」のところです。別稿『脳科学の成果より』の中の「死の恐怖からの脱出の技法」及び『禅仏教の方向性』の中で述べられる「中核自己に備わっている3つの宝物」の「断」がここで体得できます。古来から禅で「心不可得」「不生」「不染汚」等と云われたことが、ここで体得できます。但しこの「断」の場では、これが「断」「止」「心不可得」「不生」「不染汚」と気付くことさえ切断してしまいます。

六合目 見晴台の「洗心」の処で述べたようなことがここでも起こっているのです。「断」にしても「洗心」にしても、その状態を続けるためには、陳述的記憶を働かせないで体性感覚(中核自己の領域)に止まり続けるということが要請されるのです。

つまり「断」の状態にある状態から、これが「断」とか「止」「心不可得」「不生」「不染汚」と気付くまでには、脳内では別のプロセスが加わる必要があり、その結果極わずかながら(神経細胞ネットワークレベルでの)タイムラグが生じるということになります。(気付き(「覚」)という現象は、中核自己の領域と自伝的自己の領域とが、神経ネットワーク上で接続することによって起きるということです)(この「覚」ということは、禅修行の中でも最重要用語の一つですので、これも別稿で特に吟味されます)

更に別の大きな問題が控えています。
それは次の技法の「薄紙一枚の坐禅」との違いです。
「薄紙一枚の坐禅」では、風を感じることができますし、又風の感覚を保持(持続)することができます。
片方は只々「赤丸」のみの感覚だけを感じていて、「断」という知覚さえも排除してしまうというのが「断」の働きです。一方は風の感覚を保持しているというのが「薄紙一枚の坐禅」の働きというわけです。

しかも両方共に、「思い出さずに 忘れずに」という条件には適っているのです。同じ体性感覚(中核自己の領域)の働きに、どうしてこのような違いがおこるのでしょうか。
この二つの状態の共通点と相違点という問題も又、とても重要で且つ興味深いものですから、別稿『禅仏教の方向性』等で取り上げられます。今の処は、この二つ感覚の違いに気づいておくだけでよいでしょう。    

*カルロス・カスタネダのいう「履歴を消す」(自伝的自己を棚上げする)や「世界を止める」という技がここで体得できます。    

*舌の位置は、「ニ」又は「チ」に近いでしょう。        

*ここでとても重要なことを追加しておきます。
この技法に慣れてくると(往々にして一合目又は三合目からの手順を疎かにした場合ですが)、只々赤丸に繋意しているつもりでも雑念(連想)が出てくることがあります。
     
この様な時、重畳法を利用します。重畳法といっても⑫で述べたような身体の他の部位ではありません。「鼠が部屋の隅の穴からチョロチョロと出てくるような」ものを、視覚を利用して「穴を塞いで」しまうのです。視覚については⑲で述べましたように、坐禅の時は知らず知らずのうちに、生まれたての赤ちゃんのように平行視になっていますので、この場合は焦点化しないで眼前に広がる視野の存在を利用して連想遮断を行うのです。
     
具体的な方法は「聴覚と視覚の訓練」であらためて実習して頂きますが、坐禅の時は、左眼を左耳に、右眼を右耳にくっ付けるようにして、焦点を合わせないで並行視します。
勿論繋意の中心は赤丸にありますので、そこはぶれないようにしてください。        

*⑲で視覚の問題を取り上げた時、坐禅の時に眼を閉じない理由について触れましたが、その時の「精神の昏沈を防ぐ」ことと同等かそれより重要な理由が、上に述べたことなのです。
平行視の時の、眼前に広がる視野の存在を利用して連想遮断を行うという技を体得することは、「視覚の訓練」においては、とても重要なステップなのです。(詳しくは「「聴覚と視覚の訓練」で)    

*視野の存在を利用して連想遮断ができた後は、再び只々赤丸に繋意します。