禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「調息山」登頂のためのエピローグ(1)

*長い人生の間に、人は種々な苦しみを味わいます。そしてその苦しみの原因を往々にして「何かの祟り」とか「原罪」のせいにしてしまうことがあります。
     
しかし『脳科学の成果より』で述べましたように、「何かの祟り」とか「原罪」とするのは、大脳辺縁系が生み出す幻影(大脳辺縁系が有している機能に捉われている)にすぎないというのが、禅の立場です。
     
坐禅中という極めて限定された時間ではありますが、「大脳辺縁系が仕掛ける罠」からの脱出方法が確実に存在するのです。
風土・慣習・言語・宗教・民族(部族)・性差に関係なく、ヒトならば誰もが持っている能力を味わい使いこなさないのは、とても勿体ないことだと思います。

*正に「吾 唯 足るを 知る」とか「壺中日月長」とか「山中暦日無」の境地に至る処です。

*折角坐禅を始めたならば、この処まで登って行きたいものです。ここは、知識も必要なく、頭の良さにも関係なく、誤解を恐れずに言うなら公案の「コ」の字さえも入る余地がない所です。重要なのは、念慮を棚上げしょうとする熱心さの度合いです。ですから自分の持っている不安や死に対する恐怖に立ち向かうための心構えとして、古来から「頭燃を救うが如く急切なるべし」と云われているのです。