禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「調息山」登頂のためのエピローグ(2)

坐禅だけでこの境地に至れるのか?と疑問をもたれるかもしれません。然し白隠禅師の『坐禅和讃』には、「一坐の功を成す人も、積みし無量の罪ほろぶ」と明確に、このことが述べられています。ここでいう「一坐の功」とは、たとえ一炷香であっても否たとえ5分間であっても、「薄紙一枚の坐禅」ならば、ということです。
 
皆様は次のような話を御存知でしょうか。神光という人物が、達磨大師に「自分のこの不安をなんとかしてくれ!!」と云ったとき、大師は「不安だというお主の心を将ち来たれ!」と応じられました。そして神光居士は、苦心惨憺の末「心を求むるに不可得なり」の境地に至ったという有名な話を。

*以上のような事柄から、極めて重要なメッセージがもたらされます。坐禅を深めることだけで、「吾 唯 足るを 知る」や「壺中日月長」や「山中暦日無」の境地に至ることができるならば、次に述べるような人々にとって、大いなる福音となることでしょう。
 
第一は曹洞宗に関係したり或いは公案禅に馴染めない方々、第二は何らかの理由によって公案禅から遠のいた方々です。このような方々の中で、「心を安んずる」方法を切に求めている方は、私の提案する技法を実践してみてください。「調息山」への道が確実に進んで行けば、自ら納得できるものが得られるでしょう。第三は定年退職後などに公案禅に入門した方々(あるいは公案禅が遅々としてなかなか進まない方々)に対してです。どんなに頑張っても、公案禅の階梯を終了するには時間が足りないと思うことがあるでしょう。公案禅の階梯を終了できないという不全感を抱えるくらいならば、公案工夫と並行して否むしろこの技法の習得を優先にして、十合目と十合目の別峰の踏破を実践してみてください。必ず自分で自分を納得する時が参ります。