禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「調息山」登頂のためのエピローグ(4)

*2015年の年末に、道友から薦められて、鈴木俊隆師(曹洞宗の僧。1959年から米国で禅の指導をされる。1971年逝去)の『禅マインド ビギナーズ・マインド』(株式会社サンガ刊)を読みました。
     
この書の40頁に「両手は、「宇宙の印(コズミック・ムードラ)を結ぶようにします。右手の上に左手を置き、中指の第二関節をあわせるようにします。そして親指を軽く、その間に一枚の紙を挟むような感じで、あわせます。こうすると、両手は、きれいな楕円形をつくります。とても貴重なものを持つようにして、とても注意して、この「宇宙の印」をつくります。親指を、おへその辺りにおいて、両手を身体の前に置きます。両腕は、少し身体から離すようにゆったりと、わきの下に卵があって、それを割らないような感じにしておきます」とあり、「薄紙一枚の坐禅」についての記述がありました。
     
私も年末から今年にかけて、この方法を自分の身体で工夫してみました。
「薄紙一枚の坐禅」の「形」の説明としては、なかなか優れたものだと思いますが、初心者にはかなり難易度が高いと思います。(後に述べるように、当マップでの七合目位でしょう)
しかもこの技法だけでは、禅定の力を深めるという方向性が見えてきません。(現代の曹洞宗では、「作仏を図らず」・「坐即只管打坐」・「修証一等」・「威儀則仏法」等、質を深く吟味することなく「形即本質」と捉える傾向がありますので、当然と言えば当然なのですが)
     
具体的にいえば、第一に②で述べましたような「数息」・「随息」・「止」という具合に,ビギナーからベテランまで、禅定の力が深まっていくということを、自分自身で自覚するという道を示していないこと、第二は⑩で触れました道元禅師の『正法眼蔵 坐禅儀』の中の「ふたつのおほゆびの、さしあはせたるさきを、ほぞに對しておくべし」や瑩山禅師による『坐禅用心記』の中の「両手の大指は相拄えて身に近づけよ、拄指の対頭は当に臍に対して安ずべし」ということの重要性に気付かせていないこと、第三は、これが最も重要な点なのですが、前項で見ましたように、「心不可得」の境涯つまり坐禅の上での自利の極に至ったという実感を体得するチャンスを失ったということです。特に十合目の別峰 「薄紙一枚の坐禅」では、禅定と「身体のゆるみ・風の感覚・ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさ」とが一体であるつまり「定慧一如」とか「修証一等」の基本が、純粋な形(坐禅の上)で体得できるわけですから、これが体得できないということは、まことに勿体ない話です。
     
但し、上記の技法はそれなりのものがありますので、皆様も試みてください。
この技法は本マップでいえば、七合目位に位置づけられるでしょう。
と申しますのも、七合目八合目そして九合目は形としては、「薄紙一枚」にはなっているからです。しかし先述のような「定慧一如」・「修証一等」には至らないので、十合目の別峰のみに「薄紙一枚の坐禅」という名称を付けてあるのです。