禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「調息山」登頂のためのエピローグ(5)

*従来の禅では、坐禅上での「断」の機能の体得と日常生活上での「断じて行う」ことの関係を単なる応用としか見ていなくて、この二者の間に次のような二つの問題が存在していることに無頓着というか気付いていなかったようです。
問題の第一は、坐禅上での「断」の機能の体得の後、次の段階で何を体得すべきか?という問題です。

この問題は既に「調息山」登頂のためのガイドマップ(5)で提起しておきましたが、ここでもう少し見ておきましょう。
次稿『禅仏教の方向性』で詳しく述べられますが、「中核自己に備わっている3つの宝物」とは、『法句経』にある「よくととのえし おのれ」をより具体的な言葉で表したものです。
ですから「3つの宝物」の1番目である「断」の機能の体得の後は、直ちに同じ「中核自己に備わっている他の2つの宝物」の体得に向かうのが、合理的でもあるし又修行の階梯からみても近道だと私は思っています。
⑭で「公案工夫をしない坐禅は、イメージや言語さえも徹底的に棚上げにしてしまうことが出来る唯一の場(覚醒時に於いて)といえる」とか「五合目以降は、一つの技法に集中している間は、言語更にイメージさえも徹底的に遮断されています」と述べたことを思い出してください。
     
この事は、僧伽(接心会)の生活の中では、随息や止以外の坐禅を除いた全ての日課が、イメージや言語の活動の介入を受けているということです。(つまりイメージや言語の活動が無ければ日課が成立しないということです)
     
ですから折角自伝的自己を棚上げするために中核自己の領域に入り込んだのですから、「中核自己に備わっている他の2つの宝物」(「身体のゆるみ・風の感覚・ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさ」、「身体が感じる窮屈さ・身体が感じる弱さ・優しさ・思いやり・・・悲しみを感じる心」を体得した後に、次の段階つまり僧伽(接心会)に於ける日課上での工夫の場に進むべきだ、と私は考えるのです。

そうすることによって、修行者の一挙手一投足に至るまでの全ての言行云為が、「3つの宝物」のどれか一つによって裏打ちされているという状態に至る道が、従来の方法より早く確実に開かれると思います。(この辺りのことは、次稿及び次々稿で詳しくとりあげられます)
そうなれば、僧伽(接心会)に於ける日課(睡眠・喫茶・食事・排泄・作務・行脚等)や出合った場面場面に於いても、「正念不断相続」ということが身に付いてきます。
ここで「正念不断相続」という言葉の意味を少し考えてみましょう。実はこの言葉は次稿で詳しく検討されますように、なかなか複雑な問題を含んでいます。詳しい話はその時にして、ここでは簡単に触れておきます。

禅修行の前期から中期(これは次稿では「如来禅」あるいは「慎独の道」のレベルと定義されます)に於いては、中核自己の長所(「いま・ここ」、「3つの宝物」)と自伝的自己の長所(「イメージや言語を操る力」、「過去・現在・未来を考える能力」)とのコラボレーション(相互補完的連携や協働)を図り、そして更に僧伽(接心会)の生活の中での「全ての言行云為が、「3つの宝物」のどれか一つによって裏打ちされている」ということをもって、禅修行の目的としています。(公案禅による修行の場合、公案の透過にエネルギーが注がれるため、最後の処が希薄になりがちです)

この「如来禅」(「慎独の道」)のレベルでは、「3つの宝物」の使い方としては、「断」の時は「断」だけ、「身体のゆるみ・風の感覚・ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさ」の時は「身体のゆるみ・風の感覚・ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさ」だけ、「身体が感じる窮屈さ・身体が感じる弱さ・優しさ・思いやり・・・悲しみを感じる心」の時は「身体が感じる弱さ・優しさ・思いやり・・・悲しみを感じる心」だけ、という具合に一つ一つが独立して働き、それぞれが「後を引く」ことなく瞬時に入れ替わることを訓練します。(例えばジャンケンでグーからパーに変わった時に、瞬時にして「硬さ・強さ」から「ゆるみ・ゆとり」に変わるようなものです。グーの感覚とパーの感覚は同時には存在しませんし、入れ替わってもそれぞれの感覚は「後を引く」ことはありません)

つまり「よくととのえし おのれ」の中身とは「3つの宝物」のことなのです。これらは「中核自己に備わっているもの」であるがため「いま・ここ」のみという性質上、それぞれが白隠禅師のいう「正」の定義(禅師は自著『寝惚の眼覚』の中で、「正の字 一止。一心に止まれば、正しきと読む。(しょうのじ いつにとどまる。ひとつこころにとどまれば ただしきとよむ)」と説明されています)に叶っていて、それぞれが「正念」の一側面を表しています。
そしてある時は「断」だけ、ある時は「身体のゆるみ・風の感覚・ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさ」だけ、ある時は「身体が感じる窮屈さ・身体が感じる弱さ・優しさ・思いやり・・・悲しみを感じる心」だけ、という具合に(それぞれの一つ一つが長時間であろうと短時間であろうと)、コロコロと転じながら相続することが、「如来禅」(「慎独の道」)のレベルに於ける「正念不断相続」ということなのです。

一般的には「断」だけが、白隠禅師の「正」に叶っていると思われているようですが、これは誤った考え方なのです。(以上の事柄はとても重要なことですので、次稿『禅仏教の方向性』で詳しく説明されます)