禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「調息山」登頂のためのエピローグ(6)

一方禅修行の後期(奥ノ院への道、次稿では「祖師禅」あるいは「磨甎の道」のレベルと定義されます)での、「正念不断相続」は少しく様相が異なりますが、この点については次稿等で説明します。

以上述べましたように、1自伝的自己を棚上げするために中核自己の領域に入っていく、2「中核自己に備わっている1つめの宝物」(「断」の機能)の体得、3「中核自己に備わっている他の2つの宝物」の体得、4僧伽(接心会)の生活の中での日課に於いて、中核自己の長所と自伝的自己の長所とのコラボレーションを図る、5僧伽(接心会)の生活の中での「全ての言行云為が、「3つの宝物」のどれか一つによって裏打ちされている」ように実践する、というのが禅修行の前期から中期(「如来禅」あるいは「慎独の道」)のレベル)までの階梯であるという私の提案を、皆様には少しは御理解頂けたかと思います。

しかし私の提案の根本にある「中核自己に備わっている3つの宝物」という考え方は、アントニオ・ダマシオの業績によって初めて浮上してきた問題ですから、禅宗の歴史の中では、極めて新しい問題なのです。
その為にこれまでの禅の歴史において、「断」の機能の体得の後直ちに「他の2つの宝物」の体得のための技法の確立という明確な方向性が、生まれてこなかったというのが実情です。(『十牛の図』を見地(禅学)の進展と見るのではなく、境涯の進展という観点で指導されれば問題は生じなかったと思うのですが)

いずれ発表される「印契(手の形とそれに伴う心のありよう)の探求」、「印契を応用した歩行訓練」、「聴覚の訓練」、「視覚の訓練」そして「発声の訓練」は、本稿による「調息の訓練」の後、僧伽(接心会)の生活の中での日課の工夫に入る前の訓練ということで提案されたものです。(つまり中核自己の長所と自伝的自己の長所とのコラボレーションの前に、もっと中核自己の領域に比重を置いた訓練が必要だということになります)

以上のような視点から見ますと、接心会の生活の中で、初心者もベテランの方も陥りやすい穽があることに気付かされます。
それは、我々が一般日常生活で使用していた「イメージと言語の活動」のスタイルを何等のフィルターも通さず、そのまま用いてしまうということです。

実例を挙げましょう。
接心会に参加した初心者に一般日常のことをあれこれ尋ねる先輩がいます。このことは初心者にとってもご本人にとってもマイナスです。折角坐禅を組み、積み重ねてきた禅定の力(中核自己の領域に入ろうとする努力)を、見事に打ち砕くことになり、元の木阿弥状態になってしまうからです。(私が所属する人間禅房総支部の接心会で、先輩たちが口喧しく「私語をするな!」といった意味がここにあるのです)
親しく声をかけるのが親切で、そうでないと新人が集まらないという人がいますが、「接心」ということの本義を緩めるようでは、本当に道を求めてくる人達が却って遠ざかってしまいかねません。雑談するよりは、私がいずれ提案する「印契(手の形とそれに伴う心のありよう)の探求」、「印契を応用した歩行訓練」、「聴覚の訓練」、「視覚の訓練」そして「発声の訓練」を使って、より細やかな指導を試みてください。指導する側にも指導される側にも、実り多きことと思います。

又実例です。主婦の方が、家事に長けているからと、初心者にも関わらず、作務で典座の補助に付けることを時々見かけます。初心者である主婦の立場からみると、一般日常生活で使用していた「イメージと言語の活動」のスタイルをそのまま持ち込むことに何の違和感もありませんが、このような作務の割り当てが良くはないことは、これまでの説明で十分お解かりになったことでしょう。初心者には草取りを、定力をもっと付けてもらいたい方には便所掃除等がよろしいでしょう。とにかく典座の作務はベテランの方でも難しい物です。(禅道場の良し悪しを決めるのは、典座における言葉の寡多ともいえるくらいなのです)

更にベテランの方でも陥りやすい穽があります。それは、提唱の聴聞の構えのことです。
接心会の日課の中で言語活動の介入が最も多いのは、入室参禅と提唱聴聞の場に於いてです。入室参禅の場は密室の中の話ですからこれは置いておきます。
ベテランの方でも、提唱の進行に伴って講本の頁をめくったり、あるいは老師の話の内容に「自分も同じ宗旨と思っている」といわんばかりに頷いたりする方を見かけることがあります。
これでは学校の講義を聴く態度と変わりがありません。19頁で、「全身心を耳にして拝聴すべき」とか「体性感覚を一種のフィルターとして拝聴する」とか、『論語』の「子貢云く、(中略)夫子の性と天道とを言えるは、得て聞くべからざるなり」と述べたことを思い出してください。(提唱というのは本来は、「師家(老師)が体得したものを、引っ提げ持ち来たって大衆面前にて唱え出す」というものです。講本はあくまでも借り物なのです)
ベテランの方ほど、「全ての言行云為が、「3つの宝物」のどれか一つによって裏打ちされている」ように実践することに努めるべきでしょう。そうでなければ、後輩の善きお手本とはいえないのです。
従来のやり方では、公案工夫がややもすると上滑り(先師磨甎庵劫石老漢が云われた「禅学」)になりがちです。(この一つの例を「調息山」登頂のためのエピローグ(3)の「心不可得」の処で示しました)
公案の宗旨の当てっこ競争」にどれだけ先んじてようと、一挙手一投足に筋が通ってこなければ、それまでの修行は全て砂上の楼閣と言えるのです。

本当に力量ある修行者ならば、そのようなことは手に取るように見えてしまうのです。(次稿『禅仏教の方向性』の「境涯と見地(禅学)」の処でこの問題を再度とりあげます)