禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「調息山」登頂のためのエピローグ(7)

次に「調息山」登頂のためのエピローグ(5)で述べた第二の問題に触れます。
これは、生活が行なわれる「場」に絡む問題です。生活が営まれる場が、「僧伽」(我々一般社会人 勤労者・主婦・学生・年金生活者の場合は「接心会」)での生活なのか、一般社会での生活なのかという問題です。

この問題は、道元禅師の流れをくむ曹洞宗よりも臨済宗における問題といえます。
と申しますのも、伝統的な臨済禅では、「僧伽」の生活と一般社会での生活とを区分けすることは曹洞宗ほど厳密ではありません。修行者の立場からみると、むしろ「僧伽」は自分個人の境地を高めるための「場(自利の場)」として、一般社会は他者(物)のために尽くす「場(利他の場)」として、一体的に捉える傾向にあったからです。第二の問題が重要なのは、「僧伽」と一般社会の相違点と共通点とを十分抑えた上で、「僧伽」の生活で獲得した教義や法理更には禅的考え方・見方をそのまま一般社会の生活に持ち込んで良いのか否か、持ち込むとすればその中身はどのようなものなのか、つまり禅修行の場から一般日常生活の場に戻る時に押さえておかなければならないことはなにか?という問題が存在しているからです。(禅修行が出家者中心に行われていた時代には、この問題は浮上しなかったのですが、明治以降多くの一般社会人が禅修行の道に入っていったことから生じたのです。特に先の大戦のときには、「軍国禅」とか「軍人禅」という言葉がもてはやされたのですから)
     
この問題もとても重要ですので、別稿『禅仏教の方向性』で再度取り上げられますが、二つの生活の場の相違点を簡単に押さえておきましょう。(では共通点はなんでしょうか?これまで進んでこられた皆様ならば、もうお気づきでしょう)
一般社会での生活では、伝統的に仏教の「僧伽」で排除されていた政治行動(軍事行動も含めて)・高度な経済活動・生殖行為及び性的行為等は、日常当たり前の行為です。それに加えて現代社会に共通する諸問題(価値の多様化・文明の衝突と言われる位の価値間の争い、グローバル化に伴ってより拍車のかかった経済格差・虚業マネーによる実業への圧迫、大量生産・大量消費・大量廃棄、軍事予算の厖大化・大量破壊兵器保有・戦争や紛争を待ち望むグループの存在(武器商人や民間軍事作戦請負会社の存在)・軍産複合体による政治的圧力、等々)の凄まじさは、「僧伽」の生活での周辺で観られる自然界における弱肉強食の景色やこれまでの「僧伽」が遭遇した「世の中の混乱」や「戦乱」の比ではありません。

以上のように、一般社会と「僧伽」との生活にはかなりの相違点がありますので、この点を踏まえたとき、禅仏教はどのように対処するのでしょうか?
特に深刻な問題である「価値の多様化・文明の衝突と言われる位の価値間の争い」について、禅仏教は「争い」の場を増々混迷させるように働くのでしょうか?それとも「争い」の場からの脱出策を提供しようとするのでしょうか?このような問題も含めて次稿で検討します。