禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「調息山」登頂のためのエピローグ(8)

*既述で修行者の「坐禅のレベルが神光居士の坐禅のレベルに達していない」というふうに述べ、全てが修行者側の責任であるかのような印象を与えたかもしれません。しかしこの問題の裏にはこの公案の解答を求める師家(しけ、禅で修行者を指導できる資格のある方、一般には老師と呼ばれる方)の力点の置き方、つまり指導方法の相違という問題が潜んでいるのです。
では指導方法の相違というのは何なのでしょうか。この問題もとても重いので別稿で取り上げられる予定ですが、ここで簡単にいってしまえば、修行者の見解(けんげ)が神光居士の体得した「心不可得」の境涯を十分に体得した上で、なおかつ微妙な宗旨を味わうというレベル(境地)を求めているのか、それとも単に知的レベル(見地・禅学)だけで良しとするか、ということでしょうか。
もし見地・禅学が優先されるようなことがあれば、「公案の透過は有れど、境涯の進展は無し」という事態を招くのではと、危惧致します。

*ところで神光居士の伝記をご承知の方は,きっと疑問に思われるでしょう。「確か神光居士は、達磨大師の目の前で自ら左手を切り落とし、それを差し出して入門の決意を表明されたのだから、隻手のはずではないか。彼は両手による「法界定印」はできないはずだ。とすれば神光居士の体得した「心不可得」と,これまで説明されたように「法界定印」を前提にして得られた物とが同一であるという根拠があるのか?
この問いは長い間私の胸の中にあったものですが、漸くこの問題に触れる時期がきたようです。これに関連することは補遺2で触れますが,結論から申せば隻手の方でも,十合目及びその別峰に近い体験は可能だということです。

しかし、両手の方が十合目及び十合目別峰で得られた物と,神光居士が「心不可得」で得られた物とが同一であるという明確な根拠を提出することはできません。というのも神光居士(後に二祖 慧可大師となられる)の伝記(『景徳傳燈録』等)には、繋意の技法についての記載がないからです。

*私は普段結跏趺坐で坐っています。毎回このマップの一合目から始め(会場の状況によっては、三合目から)十合目及びその別峰まで辿っていくようにしています。別峰に辿りつくまでの時間は、40〜50分程度です。(途中特に五合目 木陰で小休止や、六合目 見晴台で大休止の処で4、50分経つ時もあります。又時間に余裕があれば、少し休憩を置いて「奥ノ院への道」の坐禅を行っています)4、50分位経ちますと、足の疲労感が溜まるのか(若い頃はそうじゃなかったのに!)下半身のどこかに痛みを感じてきます。その場合14頁で述べました「左掌に心を安んずる」技法がとても有効です。皆様も是非試みてください。    

*これまでの処で境地・境涯・見地(禅学)という用語を使用しました。これらの用語については、従来の禅ではきちんとした定義はありませんので、私の定義で説明したいと思います。
境地とは境涯と見地(禅学)とを合わせたものです。問題は境涯と見地(禅学)との違いです。これらの定義も又とても重要ですので、別稿で取り上げられます。