禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「調息山」登頂のためのエピローグ(9)

*少し前の処で、「何かの祟り」とか「原罪」とするのは、大脳辺縁系が生み出す幻影(大脳辺縁系が有している機能に捉われている)にすぎないというのが禅の立場です、と申しました。
     
ここで、大脳辺縁系が有している機能がまるでヒトの脳の全機能であるかのように、あたかも自分の全人格であるかのように思いこんでしまうという現象を少し見てみましょう。(いずれ別稿の『禅仏教の方向性』で改めて検討されますが)
     
禅語に「竹影堦(階)を掃って塵動ぜず 月潭底を穿って水に痕無し」というのがあります。この語が禅者に好まれるのは、ヒトの心が働いても、痕が残らない、執着しないという状態になることを修行の目的の一つにしているからです。
     
自分の心の働きであっても、自分の思い通りにいかないのは、こだわりや執着(あたかも納豆のネバネバのように容易に断ち切れない)があるためなのです。つまり前稿『脳科学の成果より』でみましたように、「大脳辺縁系が仕掛ける罠」にまんまと嵌ってしまうからなのです。
と申しますのも、ヒトの大脳辺縁系の機能の一つである「陳述的記憶の貯蔵庫」の働きは、地球上の生物進化の過程でより優れたものへと淘汰されてきたことが、大きな影響を与えているからです。

ヒトの記憶容量は他の生物に比して圧倒的に大きく、更に記憶の3過程(取り込み・保持・再生)の中のとりわけ保持という機能が、脳障害や認知症等の特殊な場合を除いて、極めて劣化し難いという特徴があります。
そしてヒトは、生後色々な経験を通して学習したこと(その大部分はイメージや言語的記憶によるものですから、大脳辺縁系の中の「陳述的記憶の貯蔵庫」に蓄えられます。更に喜・怒・哀・楽・不安・恐怖等の情動反応も又イメージや言語的記憶として翻訳され、この場所に蓄えられます)を参考にして次の行動を決定していきます。それによって出来上がっていく行動のパターン化されたものが個性であり、吾我(エゴ)であり、アントニオ・ダマシオのいう自伝的自己というわけです。(「三ッ子の魂 百までも」という諺がこの辺の事情をよく説明しています)
言うなれば、自伝的自己を支えている「陳述的記憶の貯蔵庫」の扉を開くメカニズムが働き出すこと自体が、「貯蔵庫」の特性である「こだわりとか執着」が発生することになり、場合によっては「大脳辺縁系が仕掛ける罠」(前稿『脳科学の成果より』を参照してください)にまんまと嵌ってしまうのです。
ところが、この「大脳辺縁系が仕掛ける罠」から脱出する見事な方法を、禅は提案しています。
     
『般若心経』にある「五蘊皆空」というテーマがそれです。(「五蘊皆空」という話題を取り上げると何頁にも及びますので、この話題についてはいずれ別稿で検討しますから、ここではあっさりと扱っておきます)
     
此のうちの「識蘊」(アラヤ識)を「如何にして空ずることができるか?」ということが最も重要なこととされています。
     
「アラヤ識」は中国では、「含蔵識」とか「心王識」とかと訳されました。この内の「含蔵識」という言葉は、大脳辺縁系の一つの機能である「陳述的記憶の貯蔵庫」を表す用語とすれば、現代にも通じる言葉です。
     
又「心王識」という言葉は、「心の司令塔」とか「主人公」という意味です。この「心王識」はアントニオ・ダマシオのいう「自伝的自己」と同義語と考えることができますので、これも又注目に値する言葉といえましょう。(白隠禅師は『毒語注心経』という書物の中で、アラヤ識のことを「識神」といい、人々はこれを「主人公」と思っているが、禅の立場から見ると、これは本当の「主人公」ではないと述べています)

脳科学が未発達の時代の古人の用語ですが、その先見性におどろかされます。但し今述べましたように、「含蔵識」と「心王識」とでは、現代の脳科学的知見からみますとかなり内容が異なります(「心王識」の方が「含蔵識」より、多くの機能を含んだ広い概念です)ので、「識蘊」(アラヤ識)という言葉が使われたり若しくは使おうとした時、「含蔵識」(「陳述的記憶の貯蔵庫」)という意味なのかそれとも「心王識」(「自伝的自己」)という意味なのかそれともそれら以外の意味なのかを区別する必要があります。
ところで問題は「如何にしてこのアラヤ識を空ずることができるか?」ということです。(ここでは「アラヤ識」を、白隠禅師と同じく「心王識」つまり自伝的自己という広い意味にとっておきます)

「空ずる」という極めて難解な言葉がでてきました。「空」という概念を検討するだけでも相当な時間が必要でしょうが、此処でも簡単にみておきます。
「如何にしてこのアラヤ識を空ずることができるか?」を『脳科学の成果より』風に翻訳しますと、「「陳述的記憶の貯蔵庫」をも含めた大脳辺縁系の機能が、「自分の全人格を表すものではなくて、脳の一つの機能にすぎない」ということを、「行」を通して体得することが出来るか?中核自己の領域の働きを必要に応じて使いこなすことによって、大脳辺縁系の有する弱点を補い、大脳辺縁系が仕掛ける罠から脱出することが出来るか?」ということになります。
そのためには、「大脳辺縁系の機能から離れた処にいて(これによって大脳辺縁系の働きだけが自分の全人格ではないことに気付くことができるのですが)、しかも大脳辺縁系の欠陥を露呈するような情動としての精神状態(怒り、納豆のネバネバのようになかなか断ち切れない悲嘆等)とは対極にある感情としての精神状態(「ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさ」と「優しさと・思いやり・・・悲しみを感じる心」)を、日常的に味わいそして使いこなす技を体得できるか?」ということになってきます。

「空ずる」ことが出来るためには、大脳辺縁系の影響を強く受けている「自伝的自己」=吾我(エゴ)が過度に働いていると気付く(察知する)だけでは不十分なのです。例えば肥満の人が毎日体重を測定し、毎日肥満に気付いたとしてもあまり意味がないように。気付かないよりはましだという意見はありますが、「空ずる」ためにはその対象を明確にし、それを消去する技を体得していなければなりませんし、又そうでないと実際の役には立ちません。