禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「調息山」登頂のためのエピローグ(10)

一例を挙げてみましょう。以前「新幹線の中で泣きわめいていた乳児の母親に対して、怒った乗客がいた」と新聞紙上で話題になったことがありました。
新幹線の中という閉じ込められた空間の中で、乳児の泣きわめく声が長時間聞こえてくる状況は、近くにいる人にとって確かにきつい事だと思います。しかし当の母親はもっとつらい思いをしているはずです。この時、禅者ならばどうすればよいのでしょうか。

私が提案する「風の感覚・ゆとり・・・楽しさ」や「優しさ・思いやり・・・悲しみを感じる心」を使うことによって、結果的に怒りを鎮めたり、怒りに対する抵抗力を高めればよいということになります。(但し上記のような怒りを鎮める技法は、いずれ提案する「印契(手の形に伴う心の有り様よう)の探求」や「印契を応用した歩行訓練」や「発声訓練」よって習得することになりますので、それまでの当座の方法を記しておきます。
第一の方法は、⑩の所でも述べましたが、針等極細いものを抓もうとする時に手の第一指と第二指の爪の角を利用します。第一指と第二指とをそのようにして、他の三つの指は軽く握るようにします。

そして両手の第一指と第二指との爪の角に繋意し、その部位の感覚を利用して、怒り(情動)に対するのです。第一指と第二指との爪の角では、シビレ・痛み・熱さなどを感じるかもしれませんが、重要なことは、この部位に「断」又は「優しさとか思いやり・・・悲しみを感じる心」のどちらかが感じられるということです。この感覚(感情)によって、怒りを鎮めようとするのです。怒りを鎮める力は、片手よりも両手の方が強くなります。
第二の方法は、⑳でも述べました「左掌に心を安んぜよ」という方法です。特に、「左掌に向かって流れる風の力」によって、怒りが生じるのを、どれだけ消去できるのか、機会があったら試してください。

では以上のような技を通して得られるものは、何なのでしょうか?
それは、アントニオ・ダマシオのいう体性感覚野の近辺(第二次体性感覚野又は島皮質)と密接に関係のある「感情」ということになります。(感情の例として、先ほど「ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさ」とか「優しさ・思いやり・・・悲しみを感じる心、」ということを紹介しました)

そしてこの感情は、『脳科学の成果より』で述べましたようにアントニオ・ダマシオのいう中核自己に既に備わっているものですから、中核自己の特性即ち「いま・ここ」という性質をも持っています。

つまりアントニオ・ダマシオのいう「感情」に分類される「ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさ」や「優しさ・思いやり・・・悲しみを感じる心」は、「情動」に分類される「怒り、悲嘆」に対しての極めて有効な対抗手段であると同時に、「いま・ここ」という性質によって「後を引かない(つまり執着しない)」という機能をも有していることになります。
しかも上記のような「感情」は、使えば使う程豊かになります。まさに無限というわけですから、これを使わない手はありません。(これらは宇宙の生命の歴史の中で、ヒトに与えられたギフトともいえるものですから、風土・慣習・言語・宗教・民族(部族)・性差更には頭の良さ悪さ、知識の多寡等とは無関係に、誰にでも既に備わっているのです。只あまりにも身近にありすぎて、気づかないだけなのです)

「竹影掃堦塵不動 月穿潭底水無痕」という禅語で示される心の在り方は、具体的な訓練(稽古)によって到達可能になります。
皆様には、このガイドマップ(「調息の訓練」)や今後発表される予定の「印契の探求」・「印契を応用した歩行訓練」・「聴覚の訓練」・「視覚の訓練」・「発声訓練」を実修して頂ければ、確実にこの問題解決の核心に迫ることができるでしょう。
     
では白隠禅師が『毒語注心経』の中で「識神」は本当の「主人公」ではないと述べていますが、これぞ本物の「主人公」というガチッとしたものはあるのでしょうか? 実はそれもないのです。
     
「調息山」登頂のためのエピローグ(6)で述べましたように、「3つの宝物」が、それぞれの一つ一つが長時間であろうと短時間であろうと、コロコロと転じながら相続することを体得したり、更には「中核自己」の長所(「いま・ここ」、「感情」)と「自伝的自己」の長所(「イメージや言語を操る力」と「過去・現在・未来を考える能力」そして適度な「情動」も?)との相互補完的連携・協働を体得できれば、ガチッとした「主人公」が存在しないことを実感できるはずです。
以上が『脳科学の成果より』風に翻訳した「空ずる」ということの中身です。
     

ヒトに与えられたギフトを禅の修行を通して究明(「よくととのえしおのれ」を究明=己事究明)し、それらの機能を味わい使いこなしていくのです。そして一生を通して実践し、やがて自分の役割を(できれば誰かに託して)終えていくのです。(宇宙の生命の歴史の中で、一瞬キラリと光って消えていくようなものです)
ところで自分の役割を誰かに託してといいますと、皆様は、老師方のような祖師禅の熟達者(「磨甎」の人)の人達の話ではないかと思われるかもしれません。
確かに出家者中心の伝統的な臨済禅では、禅道場を選仏場と見て、そこに集まる有象無象の修行者の中から、真に後継者に適うと見た人物を一本釣のようにして引き上げる方法(「一個半個」の育成)が取られており、それ以外の人物の殆んどは、歴史の中に名も残さず消えていきました。
しかしこれからの社会人の為の禅の在り方では、様相が異なるでしょう。

「調息山」登頂のためのガイドマップ(5)で述べたように「慎独」の方々(如来禅の体現者)を多数輩出して、周りの人々の「善き御手本」になるようにする必要があると思うからです。
「慎独」の方々は、「よくととのえし おのれ(中核自己に備わっている3つの宝物)」を体得し、且つそれを他の人に伝える技を十分に持っています。