禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「○」=円相(えんそう)とは? 禅と茶の集い便り(50)

師走の寒い日が続いていますが、皆さんお元気ですか。
今日(2014年12月26日)は、今年最後の禅と茶の集いでした。
 
市役所の駐車場で、高貫さんと小林さんと一緒になりコミュニティセンターへ向かいました。
小林さんは、先日の摂心で見性(自分の本心本性を見ること)されました。
摂心中、道場で小林さんが坐っている姿を見て、「ああ、この人は見性したな」と思いました。座っている顔や姿が以前とは違うし、小林さんがかもし出す雰囲気が変わっていました。
坐禅の仲間が見性するというのは、道友としてこの上ない喜びです。これからも小林さんは坐禅を続けていくと思いますが、永く一緒に坐っていきたいと思いました。
 
7時から静坐をしました。参加者は、11人でした。10人を超える人が来ると静坐の時間の雰囲気も一段とよくなります。
 
8時からは、太田先生による坐禅のワークショップです。
今日は、体(特に息)の暖かさを感じてみようということで、マスクをつけて自分の呼吸を感じるという試みがありました。
いきなり知らない人が来るとなんだかあやしい雰囲気に見えるかもしれませんが、いたってまじめな取り組みです。
 

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今日は、先週の掛け軸、「○」=円相(えんそう)を解説します。
と言っても、言葉で的確に表現できるわけではない(だから○なのです)のですが、「禅語の茶掛 続一行物」(淡交社)から抜粋します。
 
円相は世のいわゆる禅語でもなく、また禅画でもない。
しかし禅のきわめて禅的な表現であることは疑いない。
ところで、円相の意味は一義的に明白なものではない。
その上、円相というものは、本来言語道断な悟りの当体を説明注釈にわたらず表現しようとの肚(はら)から書かれたものであるから、それを説明することは、円相の書かれる趣旨に反し、これを冒涜する所行でさえある。」
(略)

禅の修行というものは畢竟(ひっきょう)するに、坐禅の行(ぎょう)によって悟りをひらき、さらに悟後(ごご)の修行を継続してその悟りを深め、ついに悟りと自己といつも行影相伴う境涯まで到達することである。
ところでいったい何を悟るのか、悟りの当体は何者かというと、それは禅定三昧の行によって体得し、冷暖自知するほかはない絶対なもので、本来、何とも説明のしようもなく、名づけようもないものである。
(略)
悟りの当体の仏性が真空無相でかつ円満浄明である点に着目して、その仏性をグルグルッと円形をもって形象化したもの、それが禅者のいわゆる円相なのである。
円相とは畢竟するに言語道断な悟りの当体である仏性や本来の面目を、また「本分の田地」などとも呼ばれる悟りの世界を、洒々落々と、時には瓢逸味さえ加えて形象化したものだ、といって大過ないであろう。
 
来年の禅と茶の集いは、2015年1月9日(金)午後7時からです。
次回の大田先生の坐禅ワークショップは、2015年1月23日(金)です。
 
お待ちしています。
みなさん、どうぞよいお年をお迎えください。
 
義存 合掌