禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

自力と他力 「禅と茶の集い」だより(54)

今日(2015年1月30日)は、千葉では今年初めて雪。
でも私の家の周りではほとんど積もらなかったので寒いながらも交通の心配はせずにコミュニティーへ向かいました。
 
今回は第5週なので、まずは読書会から。
ネルケ無方著の、「日本人に宗教は要らない」の続きです。
今日の話題は、以下のところ。
 
よく「他力」は浄土真宗、「自力」は禅宗と言われる。
他力とは、阿弥陀如来の本願力のことで、他力によって救済されるとする。
自力とは、自らに備わった力で悟りを求めることであるらしい。
しかし、自力で「ただ坐る」ことはあり得ない。
ただ坐っているときには。「自力」も「他力」もない。
ひとつの大きな力に包まれて坐っているというのが坐禅
そういう意味では、坐禅と念仏はむしろ近い実践ではないだろうか。
道元禅師の考えていた迷いと悟りのカラクリも親鸞聖人の教えに意外と相入れやすいかもしれない。
 
これには、いろいろな意見があると思いますが、私自身の実感としても、しっかり坐っているときは「私」が坐禅をしているという感覚はまったくありません。
 
ネルケさんは「私が坐禅する。しかし、坐禅が私をする」とか「坐禅坐禅をする」という表現を使っていますが、これは私にとっては分かりやすい表現です。
いずれにしても主観と客観との境界はなくなっています。
 
ただ、この様なことを書き出すと言葉の遊びになってしまうこともあるので、
実際のところは体感するしかないと思います。
 
次はお茶の時間です。
 
今日のお茶は、栗田さんのお手前でした。
お菓子は松山の山田屋まんじゅうでした。

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話題は今大きな事件になっているイスラム国のことへ。
 
一つのことを信じてしまうと他の世界観や価値観が見えなくなることは宗教に限らずあることだと思いますが、そこから抜け出すのはなかなか難しい。
口で言って分かれば事は簡単ですが、口で言ってわかる相手ではない。
 
それでは、武力で制圧するしかないということになってしまうと、暴力の連座が起こり、恨みがさらに深くなることにもなりかねない。
 
それぞれの立場で言い分が全く違うので一筋縄ではいきません。
ただ、どんなことがあっても、命を粗末にするのだけは止めてほしいと思います。
 
お茶の時間の後は、すべのことをいったん棚上げして45分の静坐をしました。
 
来週は、2015年2月6日、午後6時からです。
どうぞおいでください。お待ちしています。
 
義存 合掌
 
PS 来週までに事件が良い方向で解決していることを祈ります。