禅と茶の集い

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禅体験セミナー 禅と健康(6) 坐禅(座禅)の効用

 何とかしなければ、と考えたときに坐禅というのは考慮に値する選択肢であると思います。控えめに言ってもかなりおすすめです。

 

 肉体的な悩み、心の悩み、人間関係の悩み、そういうものはなかなか理屈では解決しません。私たちが悩みを持つときには自分たちのまわりの環境に振り回されて悩むわけですけれど、その悩みを解き放つためには自分が主体性を確立して自分のまわりの環境を使いこなさなければならない、そうする以外に悩みを解決する方法はありません。

 

 例えば自分のまわりに気にくわない人がいるとします。その人のことを恨んだり怒ったりしても、自分の思うように他人を変えることはまず絶対に不可能だと思いませんか? 自分の親や子供でさえ自分の思い通りにはなりません。ましてや他人を自分の思い通りに変えることはできません。まず自分が変わるしかない。もしも、ちっぽけな自分のエゴを捨て去ってしまうことができたなら、まわりが自然に変わります。自分が人に認められたい、良く思われたい、あるいは、自分の事をないがしろにされて悔しい、そんな思いをきれいさっぱり捨て去ることができたら新しい人生が始まると私は思っています。

 

 人生いろんな事がおこりますが、人間と生まれてきたからには、それを全部前向きに受け止めて、自然に、すがすがしく、何かにこだわること無くさらりさらりと、自由に楽しく生きて行く。そしてまわりの人とも仲良く暮らしていく。そんな人生にしたいものです。これがじつは健康と云うことです。

 

 そのために大事なことは、頭で理屈をこねくり回して悩みを増幅させないことです。人間は中途半端に頭が良くなってしまったが故にかえって悩みが深くなってしまっている。その考えすぎの部分を手放してすがすがしく生きる生き方が禅なんです。数息観はそのための基礎トレーニングです。いろいろな思いをいったん手放して、棚上げにして、自分の呼吸に全神経を集中させる。外に向かっている注意を心の奥へ奥へと向けてどんどん探っていくと、ついに、本当の自分に出会うときが来ます。普段今まで自分であると感じていたものは実は錯覚のようなものであったと気づく。

 

 たとえて云えば、それはちょうど水の表面に生ずる波のようなものであって、実はその本体は水なのですが、波という別のものがあるかの如く錯覚しているわけです。心の波が坐禅によって静まり消えてくると、ある時突然、水底がすっと見えてくるときが来ます。これは自分ではっきりわかります。急にすべてが楽になる。なーんだ、こんなに楽だったんだ、という感じです。ただし、この感じ方には個人差があって、波を完全に消すことができた人は深く感じるし、そこまで波を消せなかった人は浅く感じます。私なんかそんなに深く感じたわけでは無いのですが、それでも一応ほんの少しかすった程度でも見えたことは見えたわけで、ここが禅の修行のスタートラインなんです。本当の自分というものを一度でもちらっと見たら、今度はそれを少しずつたくり寄せてだんだんに自分のものにすることができるようです。それは長い時間をかけて行う人間形成の旅なのですが、少しずつ、少しずつ、自分がましな方に変わっていくのは一生をかけたやりがいのある目標だと思っています。私にとっての健康とはこのように少しずつ努力しながら少しでも良い方に変わっていくことです。

 

つづく