禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

禅体験セミナー 禅と健康(8) 三昧の効用

 禅とお茶ということは来週に詳しいお話があると思いますが、昔からお茶と禅の味わいが一つ、という意味で茶禅一味、茶と禅、一の味と書きますが、さぜんいちみと読みます。

 

 坐禅はじっと坐って息を整える工夫を基本としていますが、実は禅というのは坐っているときも立っているときも歩いているときも寝ているときも、常に工夫を続ける事が大事なんです。行住坐臥、常に心が整っている、その心がずーっと続いていくのが目標です。ある意味では坐っているときが一番そのような整った心の状態になりやすいのですが、しかし、坐っているときだけでいい気持ちでいても立ち上がったとたんに心が乱れてしまうのでは日常生活に生かす事ができません。

 

 坐禅以外の場合、いろいろな動作をしているときにも同じ整った心を持続させる練習をする必要があるんです。禅の道場で掃除を一生懸命にするのも日常生活の中に坐禅によって整った心を生かすための練習です。

 

 そういう意味から、茶道というのはまさに動く禅であるといえます。お茶のお点前を覚えるときには、一つ一つ動作を分解して、覚えていきます。右手に何を持って、左手には何を持って、茶室に入るとき畳のどのあたりに足をついて行くとか、すべて基本通りをまず覚えて何度も何度も繰り返して練習するわけですが、頭で動作の事を考えている時には決して美しい動作にはなりません。身体が動作を覚えてしまい、自然に、無意識にお茶を点てられるようになって初めて良いお手前になるわけです。数息観をする時にも自分の考えを一時棚上げにして、息を数えることに集中します。他の事は例え頭に浮かんできても取り合いません。本当に集中しているときはお茶を点てているとか数息観をしているという意識はなくなっているはずです。そのことだけに集中することを三昧といいますが、読書三昧とか仕事三昧とか、我を忘れて集中することです。

 この三昧という事が素晴らしいんです。


 ただし、普通は簡単に三昧にはなれない。これには練習が必要です。
皆さんは数息観を練習してみましたからよくわかっていると思います。

 

 息を数えることだけに集中しようと思っても、次から次へといろいろな事が思いうかんでくるでしょう? 思い浮かんだ事をそのまま取り合わずに放っておけばそれでいいのですが、つい思い浮かんだ事から連想が働いてしまいどんどん別のことを考えてしまう。そして気がついたらどこまで息を数えたかわからなくなっていませんでしたか?

 

 隣の人が足を痛そうに動かしている音が聞こえる。がさごそっ、と聞いたらそのまま「がさごそっ」だけにしておけばいいのですが、足を動かしてる、と考える、しびれてるんだなっ、と続いて考える、私もちょっとしびれている、終わりまでもつかな、あと何分で終わるんだろう、今回だけうんと長かったらどうしよう、足を組みかえるときの作法はどうするんだったかな、などととめども無く連想が連想をよんでいくものです。そうするともう三昧の世界からは遠ざかります。

 

 例えば、この和室の畳の上に幅30センチで長さ5メートルほどの木の板をおいて、こちらの端から向こうの端まで畳に足をつかずに渡ってみてください、と云われたとしましょう。これは誰でも普通に歩ける人であればまずできるはずです。しかし、もしその同じ板が10階建てビルの屋上でビルとビルの間に渡してあったらどうでしょうか? 同じように平然と渡れますか? まあ、普通は渡りたくないですから、渡らないですむ方法を考えます。でも、後ろから火の手が迫っていて、渡らないと焼け死んでしまうとなったら、渡らざるを得ない。その時、板を渡ると云うことに集中して、三昧になりきって渡れば、その木の板は畳の上にあるのとおんなじですから落ちることは無いのですが、もし、途中で足を踏み外したら落ちて死ぬに違いない、とか、突然風が吹いたらバランスが崩れてしまうかもしれないとかいろいろ考えると結局わたれなくなって焼け死んでしまうかもしれません。

 

 三昧の力は究極の集中力ですからいろいろな場面で役に立つはずです。ですから昔の人だけで無く、現代人にも必須のスキルではないかと思います。

 

つづく