禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

坐禅のすすめ『はじめに』p3~5 白田貴郎

現代人の生活をふり返ってみると,正直にいって,物質の面は豊かで外装はきわめて華やかであり,また知的情報は豊富で,生活やものの考え方も合理的になっているが,かんじんの生活の根底になる心の内実というものが正しい筋目を見失っているといってよい。

家庭や学校や職場で行われている営みをみても,大方が“人間は畢尭どうあればよいのか?”“人間として生きてゆくほんとうの意義は何なのか?” という基本的な反省を欠き,しん底から納得できる心構えが得られないまま,生きるための技術に没頭せざるをえなくなっているのである。

これでは,何としても人間の生き方としてはほんものではないし,ほんとうの生き甲斐というものも得られない。

中国の古い語に,【天行健なり。君子自彊して息まず。】という言葉がある。 「天行」とは,天の運行であり,天命とか天道とかいわれる大自然のいのちである。 その天行は,元来まことであり,健やかで病いはない,というのである。 これは,一見何でもない平凡な語のようにみえるが,よく噛みしめると,深い智慧と境涯に裏づけられた珠玉の言葉である。

次に,もし大自然のいのち即ち天行が健であれば,その現われである人間のいのちも健でなければならないが,人間に対しては,そのあとを受けて「自彊して息まず」としている。白彊とは,自ら人間形成に精進しつとめることである。 つまり人間においては,他の動物たちと違って,自然のままに放置すると病になる,だから人間形成につとめなければならないというのである。 これは,人間が,考える葦として,自ら我見をつくりあげ,天行にそむき,病いの道を歩むからである。

人間は,どうしても我見という非本来的な虚妄の状態を克服し,その本来性をとり戻し,天行と不二一如である健やかな本然のすがたに帰らねばならない。 そのために自彊してやまないのが,人間の道なのである。

 

これから坐禅というものについて語ることになるが,坐禅とは,一言以て之を蔽えば, 【天行 健なり。君子 自彊して息まず。】という人間の道の行取といってよい。 現代人の多くは,ものごとを知ればそれでよいと考え,己の我見の垢を洗い落す人間形成の行に思いをいたす人はまことに少い。

しかし人間形成の修行のないところに,人間としての真の自由と平等は具現されない。 また人間は心の基本に「まこと」をすえ,正しい願いをおこし,その実現のために苦難を乗りこえて骨を折って人間形成の修行に進んでゆくことなしには,人間として生きることの真実のよろこびを味わうことはできない。

これは,何人もあざむくことのできない不味の道理なのである。 現代の教育は,この基本の人間形成の修行による心の琢磨ということを打ち棄てているが,心の琢磨のない知識の修得・技術の修熟だけでは,かけがえのない自分の人生の意義を腹のどん底から肯がい,報恩感謝にみちあふれた真実のよろこびを噛みしめるということはできないのである。

このよろこびのないところに,世界平和への建設の歩みはない。

禅は,哲学ではない。信仰でもない。心を琢磨する修行である。我見を洗い落すことによって,本来健やかで智慧と慈悲と勇気とを円かに具足している心の本面目にかえるのである。

それは,また己が一生を人間形成の一生として受けとめ,家庭や職場を人間形成の場とし,ほんものの人間になる修行なのである。 この行によって,はじめて【天行 健なり。君子 自彊して息まず。】という言葉の真実義が骨髄に徹して噛みしめ味わわれるのである。 (了)