禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

坐禅のすすめ 第1章 『問題提起』 第2節 科学と宗教 -禅を中心として- p17~35 白田貴郎

1.人生の基本問題について

人間は,誰でも,自分の一生をどのように過ごし,ほんとうに意義あるものたらしめうるかという基本の問題を背負っている。 ところが実際は,日常生活の忙しさの中で,どのように生存競争に打ち勝ち,仕事をうまくやってゆくかという配慮に没頭して,このような基本問題を反省する暇がなく,歳月を過ごしてしまいがちである。

ことに現代のように社会生活がスピードアップし,専門の分野が細かく分業化し,科学技術の扱いの上でも,経済の営みの上でも,自分の専門とする狭い分野に没頭せざるをえなくなっている状況の下では,苛烈(かれつ)な生存競争にふり落されないために,それに打ち込むのが精-ばいで,基本の問題に思いをめぐらす余裕というものはないのが実情である。

しかし,生存競争がどんなに苛烈をきわめ,平常それに忙殺されざるをえないとしても,人間は最後には死ぬものである。 死という点から自分の一生や仕事の意味というものを振り返り,生きるということの根本の基盤を確立し,真実の自分を取りもどさなければならない。 これこそは,自分に課せられた第一義のつとめであり,自らに最も親切な所以(ゆえん)である。 このような問題の検討には,忙しいということのほかに,また種々の困難が伴っている。

 

現代は情報の時代といわれ,価値観の多様な時代といわれ,不確実性の時代といわれる。 一つの決定的な統一原理や確信が樹立しにくく,一つのことに命がけで打ち込む姿勢がとりにくいのである。 それでは,近代科学というものは,この問題に光を与えてくれるであろうか? もともと科学は,世界の現象を一つの分野,一つの面からある特定の方法でとらえ,共通の因子によって分析を行い,原因と結果の関係を明らかにする論理に立っている。 その結論は,普遍性をそなえているが,善悪・美醜・利害などの価値に対しては,白紙たらざるをえず,意味づけや価値づけをなすことは,一切控えさせられている。

科学は,また特殊な面から特殊の方法論によって世界解釈を行うもので,人生や世界を全体として,総合的に把(とら)えることはできない。 例えば,自然の領域では,数学・物理学・生物学・心理学など,社会の領域では,政治学・経済学・法学・史学などとそれぞれ専門的に分化していて,それら全体を包括する総合科学などというものはない。

だから人生そのものの意義などを考察することは,科学には不可能なのである。 このような問題は,一般に宗教によってとり上げられる。 ところが宗教には,科学とは別の難点がある。 一般に宗教は,人間の死後に肉体を離れて存在する霊魂や,死後の世界などと不可欠に結びついて成立するものと考えられている。 しかし,このような霊魂や死後の世界の存在を前提とした信仰は,明らかに科学による真理と相容れないものである。

従って多くの教養ある現代人は,宗教というものは,科学による啓蒙(けいもう)を経ない前近代的な不合理な迷信を含み,偽瞞(ぎまん)と暗愚の上に立てられた幻想の楼閣であると考え,そのようなごまかしの安心に身をゆだねるよりも,むしろ苦悩ではあっても真実の道を選びたいとする傾向が強いといえる。

しかし,それではそもそも宗教というものは,その本質において,このような迷信を含み,従って人生の根本問題に正しい光を与えることができないものなのであろうか?

 

2.宗教の本質について

人類の精神史をひもといてみると,現在生きている世界宗教は,ほとんど紀元前4世紀を中心とする800年間に形成された。 東洋で,釈迦が出て仏教を開いたのも,孔子孟子が出て儒教を開いたのも,老子荘子が出て道教を開いたのもその頃である。 ヨーロッパで,ソクラスやプラトンなどが出て哲学の道を開いたのも,イザヤやエレミヤなどの予言者を経てイェスがキリスト教を開いたのもその頃である。 アラビヤで,マホメットが回教を開いたのは,やや遅れるが,たいした遅れではない。

これらの宗教は,現在何倍という人々の心に生きているが,今日まで宗教の中に,開祖の真理観や教えを越え出ようとした人は誰一人もなく,ことごとくが皆原点に還り,開祖の教えそのままを布教しようとしている。 そこでは,古いが故に,不合理であるとか欠陥があるなどとは毛頭考えられていないのである。 このことは,其の宗教というものが,科学の合理性とは質の違った別の次元の世界の真理を開示していることを物語るものではないか?

へ-ゲルは,その歴史哲学の中で,世界の歴史はキリストの出現を軸としている,キリストは世界史の機軸であるといっている。 しかし,視野をもっと拡げ,東洋を含めた世界史全体をみると,イエスだけではない。 歴史における精神の軸を形成している点では,釈迦・孔子老子ソクラテスマホメットなども同様である。 さて,これらの人々の開いた宗教は,その信仰教義の内容や方法などにおいて異なる道をとってはいるが,それらの相違を貫いてかわらない根源的な一者が厳存しているといえる。 その一者とは,世界の多様な価値の対立の根底にあって,それらを越えた神聖なる不生不滅の天命としての如是法そのものである。 その体認を通じて人間は心に「信」を甦えらせ,それとともに人間の踏むべき正しい道を悟得するに至るのである。

その体達は,人間の心に本来備わっている智慧と慈悲と勇気とを発現せしめる。 『中庸』に【天命 これを性といい,性に率う これを道といい,道を修むる これを教という】とあるのは,このことを端的に示したものといえる。 それらの宗教は,その形こそ異なってはいるが,それが開示悟入せしめようとしているのは,如是法という不生不滅の一者であり,実践せしめようとしているのは,人間の本性に即した心の道である。

従って,それらの宗教がまとっている外被をとって,示そうとしている「ものそのもの」に眼を注ぐならば,その道の教えの内実は,科学に矛盾するどころか,科学が解明しようとしている宇宙の存在そのものの実相を絶対の相において開示するものといえるのである。 その教えは,人間に即しながら,いのちそのもの(天命)の根源を明らめ,その尊厳なる所以を体認せしめる。 それは,すべての相対する価値の根底にあって,価値そのものを成立せしめている神聖な一者を開示するのである。 人間が一生の歩みの中で,その生の究極を見究め,その本来の意義を明らかにすることは,このような教えによらずしては不可能であろう。

それによらなければ,道標のない登山のように,雲や霧に道を迷い,唆しい谷に足を奪われ,多くの迷路に迷って途中で挫折することを余儀なくされるであろう。 教えとは,本来 道を拓いた先人の道標なのである。 しかし悲しいことに,それらの宗教は,現実には,また互いに排斤し合って争っている。

 

3.禅について

いまここで禅の修行をとり上げてみよう。 元来禅というものは,信仰ではなく修行である。従って,そこにはいわゆる霊魂や死後の世界はもちろん,特定の与えるべき教義や,よるべき経典や,信仰の対象となる神などの定立はない。 ただ古来の規矩に従って坐禅を行じ,本来の面目にかえるのみである。 古来禅では,法の浅深よりも,修行がほんものであるかどうかがやかましくいわれる。 坐禅によって,それでは何が行ぜられるかといえば,主観と客観,自己と世界,善と悪などの相対的な対立の出る以前の,主客未分・自他不二の存在そのものへの還帰が目指される。 平常,われわれが「自己」と考えて大事にしているものは,実は迷いの根源であり,実体のない幻影なのであるが,人間は長い間の業障のためにそのことに気づかないのである。

坐禅は,工夫を通じてその根底をつくし,人間の心というものの本体を明らかにしてゆく。 よく坐禅は解脱の道であるといわれるが,坐禅を行じて得るものは一物もない。 それはむしろ捨ててゆく道である。 人間は,生れてから経験をつんでいつの間にか「自己」という核をつくり,「自己の財産」「自己の名誉」と,その 自己を中心に働くが,その自己とは一体何であるかをつき とめようとはしない。そしてその自己を中心に,いろいろ の思想信条や生活の形を造り上げるのである。

仏教は,その「自己」の本体とは,実体のない幻影であることを看破する教えであるが,禅は,坐禅工夫による身心脱落によって,端的にこれを直証して,真実の本心にめざめさせる「空」の道である。 だから,そこには,外から特定の教義や信仰を押しつけるということはない。 そこでは,凡(すべ)ての信仰以前の心そのものの本体が開示され・如是法と一で,絶対な「空」の真実相が明らかにされる。 そこに神聖にして尊厳なる心の徳が顕現してくるのである。

法華経』の「信解品 第四」に,長者窮子という例えが説かれている。 自分の家をさ迷い出て,放浪の旅に疲れはてた子が,自分の家に戻ってみると,そのすばらしさに驚き,そこにいる主人の偉大さに畏れて近づきかねた。 それを見て,父なる主人が身を掃除夫にやつして子に近づき,話をして親近感をもたせ,家に引き入れ,だんだんと労役にもなれさせ,ついにはその家の財宝が子のものであることを明かし,子は未曽有なることに感泣するという話である。 丁度これと同様に,人間は心という無上の宝をもちながら流浪の旅にさ迷い出て,家に帰ろうとしない。

それをみて父なる仏祖が方便をめぐらして,心にそなわる本有の明徳を体得せしめ成仏せしめる。 これが仏教であり,坐禅の行なのである。 宝とは,本心本性の徳であり,仏性である。 まことに禅の道は,己れの真実の本心に還る道以外の何のものでもない。 このような道は,科学に矛盾することがないばかりか,科学が技術と結びついてものごとの本末始終を見失い,公害や自殺の凶器に転落しようとするのを引きとめて,そのあるべき本来のすがたに戻すものなのである。

今や世界の多くの人々は,真実の己れにめざめず,自分の信仰や世界観や利害の対立の中で,正しい人間の道を見失い,或は底なしの闘争や,あるいは細かい専門の袋小路に入り,あるいは自堕落な享楽にふけって,真の理想と希望のない生活にあえいでいるのが実情である。 禅は,多くの宗教の中で,神秘的教義や信仰を立てず,霊魂や死後の世界を語らず,真実の本心をよび覚ます道を直示する。 それは,科学をほんとうの姿に甦えらせ,社会の現実の営みの直中(ただなか)にあって,正しく・楽しく・仲のよい世界建設のための正しい道を開示するのである。 (了)