坐禅の組み方と数息観に入る前に,坐禅の数息観の意義について少し述べたい。
1.坐禅の目的
坐禅を始めたいと思った動機や理由は,人によって種々異なっている。
例えば不眠症やノイローゼを直したい,不安を取り除きたい,物事を的確に処理する力を得たい,その他様々である。
古来から伝わっている坐禅について書いた書物に『坐禅儀』があるが,それには【まず当に大悲心を起し,弘誓願を発し,精しく三昧を修し,誓って衆生を度し,一身の為に独り解脱を求めざるべきのみ】とある。つまり坐禅の目的は仏の誓願の達成にある,即ち
この四弘誓願を転じてゆき,衆生の苦しみを救済して,ほんとうの世界楽土を建設するのが,坐禅の究極の目的なのである。
2.坐禅の意味
つまり坐禅とは,ただボンヤリと坐ることではない。より深い精神的な意味を持っている。
俗に坐禅というと無念無想になることだと解されているが,これは間違いであって,すべての身心のはたらきをつっくるめて,一つの行に打ち込んで三昧になり,正念になりきってゆくことなのである。
古人は,坐禅を【外,一切善悪の境界において,心念の起こらざるを名付けて坐となし,内,自性を見て動かざるを名付けて禅となす】と定義している。
相対を絶し,不二一如になるという意味である。
3,実践と理論
この坐禅の意味を体得する為には実際の行が必要である。
例えば登山の場合には,地図を見ただけで山に登ったとは誰も言わない。
何となれば地図にはでてこないことが実際の山登りで数多く起るし,地図だけを使用していては,かえって,迷ったり,時には命取りになる場合もなきにしもあらずである。また実際に登山をした時の醍醐味は,とうてい地図上の創造では得られず,そこには格段の差がある。
現代のように複雑な情報社会では,数多く情報を集め,あるいは情報をうまく処理する能力があれば,それで結構役立つし,また尊敬もされる。
このように過程よりはむしろ結果を重視する社会的状況の中では,汗を流して長時間一つのことに打ち込むこむことは,時間の浪費のように思われる。
しかし坐禅の行は行そのものに深い意味があり,他人の情報をあてにし,結果を頭で知っただけでは決して身につかず,ほんとうのところは分からない事柄の典型的なものの一つである。
4.精神面における「棚上げ」(ご破算)
ソロバンや計算機を使う時には,だれでもご破算を行い,その重要性を理解している。ご破算とは,一度盤面から全てを消してしまうことである。計算する能力をほんとうに生かし十全にするためにゼロにする。
そのようなことを行わないと次の計算が狂ってくるのである。
このようなご破算ということは,実は精神の働きにおいても,とても重要なことである。
ところが日常生活ではこのような厳密な意味でのご破算が必要と考えられないばかりか,かえって現代のような生き馬の眼も抜く社会状況にあっては,次々とでてくる刺激に対して,すばやい精神的反応が必要となる。
この為に現代人は生まれて以来,次から次へと連想することが訓練され,またその能力によって頭が良いとされがちである。一つ一つ原点に立ち返って,じっくり考えていたのでは世界の中から置いてきぼりにされるような一種の強迫観念を持っている。 ふだん我々は雑音の中で生活していてよくわからないが,どれだけ自分の心が定まらないで右往左往しているか後述の数息観をやってみればすぐわかる。
いうなれば我々の脳の精神エネルギーは,電気にたとえるならば常に漏電しているような状態なのである。 しかし,人生にはこのように次から次へと連想を続けていく訓練だけでは歯が立たない状況にぶつかることがある。不安とか,老いとか死などの限界状況の前では,これまでの知識の集積だけではとても歯がたたないことを思い知らされる。
自分では,今こんなことは必要ないと思っても,とめどない考えが頭の中を支配して,本来考えるべき問題が処理できないとか,何ともいいようのない不安が次から次へと生じてきて,ますます泥沼の中におちこんで行くということがよくある。
神経症の不安の大部分は,以上に述べた精神面におけるご破算が徹底して行うことができれば消失し得るのであろう。
5.精神と身体の相互作用
人間の脳は複数のことを同時に行える能力を持っている。食事をしながら新聞を読んだり,テレビを見たりすることができる。この「ながら能力」は,脳の中に存在する層構造の機能によるものと考えられる。
つまり,自律性のある下位脳の働きの上に上位脳の機能が重畳される。例えば食事をするという,基本的な行動の上に,テレビや新聞をみるという行為の精神能力の働きが加わることになる。
他の動物に比べて,人間の精神機能は高位脳の精神活動がよりすぐれている為に,このようなことが可能となるが,しかし,このような利点は,又その裏返しとしての欠点を生じる。
それは,精神と身体の働きが分離するということからくるマイナス面である。
もちろんこのようなマイナス面も日常生活では特に目立つようなことはないばかりか,情報過多の社会への適応のためには,身体の束縛をぬけて,高位脳の働きである精神の独自性のプラス面がより強調される。
しかし,いったん精神と身体のバランスが狂ってくると,その不調をただすためには今一度精神と身体の再統一が必要となってくる。
例えば,不安という現象は単なる精神だけの働きではなく,身体の働きも加わる。不安になると心臓がドキドキし,そのことがまた不安を強めるという悪循環が出てくる。 このように精神と身体の間に,微妙に影響しあう相互作用がみられる。
しかし,悪循環作用があれば,良い循環作用があってもいいはずで,事実人間の精神と身体の働きには良い循環作用もある。 例えば,呼吸を深く吸うとか,呼吸時間を苦しくないように延長させるという訓練だけで,血圧を下げることが可能である。
古来から種々工夫されている呼吸法は,まさに,この精神と身体のよい循環作用を意識的に利用しているものである。 最近の生理学では,呼吸中枢は,意識によりコントロールされない自律神経との接点だといわれている。つまり呼吸は意識的に長短深浅が調節可能であり,この結果,意識の力ではコントロール不可能な自律神経が営んでいる各器官の働きを調整することが可能となるわけである。
坐禅の場合は,呼吸を整える以外にも身体と精神の大へん良い循環作用を活用している。長い年月 古人によって琢磨されてきた坐禅の作法を,私念をはさむことなく如実に実践してゆくことが肝要である。
6.心の安定
前にも述べたが,坐禅の行の一つの目的は,心の安定を得ることである。
湖水の底にある玉に例えてみよう。湖水の表面が風により波立っている場合には,これを鎮めなければ,水中にある玉の姿は見えない。連想を遮断し,棚上げをはかるということは,水面の波立ちを鎮めることといえよう。
もちろん,単に外からの風の影響をさけたからといって,すぐに水中の玉の姿が見えるものではない。水中に浮草があるかもしれないし,種々のプランクトンや浮遊物が漂って濁っているかもしれない。このような濁りを透明にしなければ,玉の真の姿を見ることはできない。
もしこのような浮遊物にたとえうる雑念を坐禅の定力と工夫によって,正念に化することが可能となるならば,玉にたとえられる心の真のすがたをつかむことも困難なことではない。 このように,心における波立ちを鎮め,濁水を澄ませて行く作業が坐禅の行なのである。 古来から,姿勢をととのえ,呼吸をととのえ,一見簡単なように見える自分の呼吸を数えるという方法(数息観)が実行され,我々に伝えられてきたのである。
数息観の行を実際にやってみれば,雑念を交えず,息を数えるということが,いかにむずかしいかよくわかると思う。
7,心の働き
湖水の浮遊物や漂流物は,人間の欲にたとえられる。
それらは捨てる必要はないので,ただ それらが正念に基づかず,全体のすがたを非本来的なものにするように,無統一に広がっているのが問題なのである。
もし浮遊物や漂流物がなければ,動物も植物もすめない死水になってしまう。コイもフナもドジョウも浮草の存在し,時には波立つことも,又,時には湖水に周囲の風景が写ることも,その他種々の働きが湖水には存在する。
人間の心の働きにも同じことがいえる。 よくも得もあり,境に応じて千変万化するのが,いきている証拠である。 食欲がなければ,人間は死んでしまう。性欲がなければ,子供を産むことはできない。怒りの感情や喜びや悲しみがなければ,生命を生き生きと展開し,人生を味わうことはできず,本当に世の中のためになることもできない。
坐禅は,このような煩悩を抑えたり捨てるのではなく,その人間らしい本来の姿にかえらしめるのである。したがってむしろ 坐禅によって得られた道力で,多種多様な状況の変化に応じ,千変万化し,世間で生きていくための知識や情報や,喜怒哀楽の感情,あるいは意志の力等々の心の働きを自由に使いフル回転させるのである。
坐禅によって得た,何ものにも束縛をうけず自由に,しかも一貫して正しさを失わないで持続してゆく正念の力によって,ほんとうに人間らしい心の働きが発揮されて,正しく・楽しく・仲のよい生活が営まれてゆくことになる。
禅は,人間形成の道でもあるといわれるが,それは,心の念慮というものを,三昧力によって,正念化することによって行われる。 いいかえれば禅定の力によって,迷いが転ぜられて,本来の智慧がよみがえるのである。
だから定力の伴わない思想は,思いつきであって,本来の智慧にもとづかない根無し草である。それは,世の中でどんなに重宝な生活の知恵であっても,真理にもとづいた正しい悟りの智慧によって基礎づけられてはいないのである。