禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

坐禅のすすめ 第2章『坐禅の実習』 第3節 三昧 p45~52 長野拓郎

坐禅の生命は三昧にあるといっても過言ではない。 元来禅の基本は,禅定三昧の行であり,それによって転迷開悟するのが,禅本来の目的とする処であるからである。 又禅に限らず,仏教の他の宗派にしても,或は仏教以外の宗教にしても,正しい宗教ならば,その名称は異っても,みなこの三昧というものが,その主要な要素となっている。 日本古来の諸芸道についても,その「道」たり得るもとが,三味による開悟であることを思えば,三昧の持つ意味の重要性がわかろう。

 

l.三昧の意味

三昧とは梵語のSamadbiを漢字に音写したもので,三摩地とも書かれ「正受」と意訳されている。 一般には精神を集中して余念がないこと,一心不乱に物事をすることと解されているが,禅門ではもっと深い意味がある。 即ち,厳密には三昧とは正念の相続一貫,心境一如・物我(もつが)不二,正受にして不受の三つの意味を持ち,この三つの働きを統一したものが,禅門でいうところの三昧である。

 

1)正念の相続一貫

元来禅とはDhyanaという梵語を音写した禅那の略で,静慮・正定・正思惟という意味である。正しい坐禅の方法で,精神を一ヶ所に集中して散乱を防ぎ,正しく思推することである。 いま実修している数息観についていえば,数息の一念だけが生き生きと働き,それが切れ目なく一貫相続することを数息三昧という。 これは精神の活動の停止したポカーソとした空白状態,一種の恍惚とした忘我の境,即ちいわゆる無念無想とは根本的に異る。 例えば独楽が,高速で回転しているときは,一見静止しているように見える,人はこれを「澄んだ」といっている。 この独楽が澄んだ状態が三昧で,静止して転がっている停止ではない。正念だけが生き生きとしかも純粋に,少しの切れ目もなく一貫相続するのである。

 

2)心境一如・物我不二

次に心境一如・物我不二とは,主観と客観が一枚になることで,心とは自己即ち主体であり,境とは自己以外のもの即ち客体を指すので,心境一如とは万物と我と一体ということで,物我不二と同じである。我(心)という主観と,物(境)という客観が,二元的に対立するのではなく.不二一如,一枚となる境地に到るのを三昧というのである。 数息観ならば,息を数える我と数えられる息とが不二一如とな争ことである。 剣道では気・剣・体の一致ということを大切にするが,これを数息観にあてはめると,息・数(心)・体の一致ということで,三昧ということにほかならない。

 

3)正受にして不受

これは丁度独楽が高速に回転しているように,人間のあらゆる機能が,完全に正しく働いておるから,三昧になっているからといって,何も聞えず何も見えないわけではない。 何が聞えても何が見えても,邪魔にならないだけである。 正受とは,明鏡が物を映すように,そっくりそのまま受け入れることであり,正受にして不受とは,明鏡がいかにはっきり物を映していても,その外物が去れば少しも跡が残らないことをいう。 このように物に拘泥したり,汚染されたりしない,後に影響を残さないから不受というのである。 従って,ほんとうの意味の三昧とは,正受でありそして同時に不受なのである。 数息観をしていても,見えたら見えたまま,聞えたら聞えたままにして,それに拘泥しない即ち二念をつがないようにする。 これをそうしないと,二念三念へとつながり思慮分別に発展し,次から次へと連想がおこり,いつしか雑念妄想のとりことなり,正念相続が阻害されてしまう。

 

2.一遍上人の念仏三昧

三昧というのは,人間の心の働く状態を指すだけに,その境地は言葉では説明しにくいので,ここに三昧の実例をあげてみよう。 鎌倉時代の中頃に,一遍上人という方が出て,時宗という念仏宗の一派を開いた。 この一遍上人がまだ修行中,一生懸命に念仏を唱えて,念仏三昧になろうと努力に努力を重ねたが,口では熱心に念仏を唱えておっても,雑念妄想が脳裡に浮んで念仏三昧の境地に到り得ないことを,深く反省し大いに漸悦した。

 

そして念仏三昧の境地を体得するには,坐禅によって禅定三昧を実修し,三昧力を養うことが先決であると気がつき,由良の法燈国師に入門して,他の雲水と共に本格の禅の修行に精進したのである。 この精進のかいがあって,或る日,念仏三昧の境地はこれだと,自ら納得できる境地に漸くいたることができた。

そこで彼は,念仏三昧についての自らの悟りを,『唱うれば仏も我も無かりけり 南無阿弥陀仏の声のみぞして』という一首の和歌にまとめて,これを禅門のいわゆる見解として,国師に呈した。 ところが,国師は,一応悪くはないが,まだ不徹底であるとして,これをうけがわれなかった。

彼は退いて再び猛烈に坐禅に打ち込み,ついに三昧の玄旨を体得し,念仏三昧の妙境に徹底することができた。 そこでこれを『唱うれば仏も我も無かりけり 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』としたため国師に呈した。国師はこの見解を深くうけがい、彼が念仏三昧に徹底したことを証明されたのである。

彼はこの念仏三昧の土台の上に,時宗という念仏宗の-派を開創した。 それでは最初の和歌のどこが不徹底というのか,それは下の旬の「南無阿弥陀仏の声のみぞして」というのでは,念仏をなしている自己がおり,念仏する自己と念仏とが別々で相対の場をまだ抜けきっておらず,ほんとうの念仏三昧になっておらないからである。 これに反し,あとの和歌は「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と自己というものが念仏そのものになり切っており,念仏を唱うる我と,唱えられる念仏とが,不二一如となってはんとうの三昧境を現成し,真の念仏三昧の境地に体達していることを示している。

念仏のときは念仏の正念,数息のときは数息の正念だけになりきって,その間に一点の雑念も一片の妄想もない,念々正念であることが真の三昧である。

 

3.自力救済の道・禅定三昧

次に禅定三昧と釈尊の成道について述べて見たい。 大乗仏教には救いの対象である人間の根器を考えて,自力聖道門と他力浄土門とがある。前述の時宗も他力浄土門の一つである。 これは,絶対者いいかえれば,仏と人間の間に人間の力ではどうしても越えられない断絶を認め,有限相対の人間が,無限絶対の世界に入って救われるには,阿弥陀如来の上からの慈悲によるしかないとして,ただひたすらに自己のはからいを捨てて,阿弥陀如来にすがりつき,「南無阿弥陀仏」と唱名念仏することを行としている。 ところがこれに反して,仏と人間とは本来一つであるとし,人間が自ら修行を積み智慧を磨くことによって,即ち自らの力によって,仏に成れる,無限絶対の世界に入りうると説くのが,自力聖道門の教えである。

とりわけ「直指人心 見性成仏」を金看板とする禅宗は,その代表的なもので,自己以外に絶対者をたてず,この有限相対な自己を離れず,それに即して無限絶対なものを見出し,自己即仏であることを,実地の行を通じて証悟する教えである。 それでは,その自力救済の手段方法は如何なものであろうか?

仏教では古来,涅槃に入る,いいかえれば無限絶対・真理の世界に入るには,正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定のいわゆる八正道を行ずることが,根本条件だと説かれている。 また菩提を成ずる即ち開悟成仏するには,布施・持戒・忍辱・精進・智慧・禅定の六種の行,世にいう六波羅密を行ずることが,必要と説かれている。

これらの八正道と六披羅密は,まさに仏教の説く自力救済の道であり,その中でも最も基本的なものが,正定・禅定である。それは,何故かといえば釈尊の成道が,それを証明しているからである。 釈尊は,はじめ種々の難行苦行をなされ,これは涅槃に到る正道ではないことを知って,これと訣別し,最後に実修したのが禅定三昧の行であった。これによって遂に大悟された。

このことは,有限相対な人間がそのまま無限絶対なものたり得ること,禅定三昧がそのための唯一のしかも確実な手段方法であることを,自らの実践によって証明したのである。 このようにして,禅定三昧は釈尊の悟り,即ち仏教の母胎といっても過言ではない。 禅門で三昧ということが,やかましくいわれる理由が理解できたと思う。

 

4.三昧力の養成

釈尊が禅定三昧に入り,大悟されたと同じように,我々も坐禅を組み,禅定三昧に入って,釈尊の悟りと全く同じ悟りを体得して行くのが,禅の修行である。 これを坐禅観法といい,見性悟道というのである。 ただ最後に一言したい。三昧というのは,禅の修行の上にのみ,重要なもので,他には関係ないものと思うのは,大きな誤解である。 実は三味力というのは,禅以外にも大きな力を発揮するもので,例えば読書する時は,読書三昧になって読めば,眼光紙背に徹するほんとうの読書ができ能率もあがる。

ところが,本を開いても雑念妄想を交えながら読んでおるから,さっばり頭に入らない。 学問でも仕事でも三昧になってやれば,その効果はてきめんで,又嬉しい時は嬉しい三昧,悲しい時は悲しい三昧と,随処に三昧三昧で生活できれば,人生これほど楽しいことはない。 しかしそのためには,やはり本格の禅の修行によって,千鍛百錬して三昧の力を養わねばならないのである。 (了)