禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

坐禅のすすめ 第2章『坐禅の実習』 第4節 作務 -動中の工夫- p53~59 内田ふき

禅の道は,坐禅を中心とする行であるから,坐禅を離れることはできない。 あくまでも正しい坐相で,禅定三昧に入って,見性悟道することを目指している。 さて禅門では,この坐禅の工夫に対して,動中の工夫と呼ばれる行がある。  

 

1.経行 

動中の工夫の一つに経行がある。 経行とほ,元来,お経を講じながら堂内を緩やかに歩行することから出た語である。 禅では歩きながら数息観や凝念を試みるのを経行といっている。 そのやり方は,先づ背骨を真っ直伸ばし,顎をグッと引き,叉手当胸して立つ。 そして2m位先に視線を落しつつ,呼吸に合せて静かに歩く。

最初の一歩は左足からときめ,そして左足を出すときほ何時も吸う息,右足を出すときは吐く息ときめておく。 そして,静坐の時と全く同じたたずまいで,歩きながら数息観を行なうのである。

例えば15を数えるなら,左足を出して全身の重みが移るまで“ジュー”と数え,次に右足を出して全身の重みを移し終るまでに,“ゴー”と数える。 団体で行なうときには,前の人の背中に視線をおとし,出す足や呼吸の速度を前の人に揃える 数息観のほかに,凝念ということも大へん効果のある方法である。

凝念というのは,一心不乱に一つの念慮になりきることである。 数息観も一つの凝念と言えば言えないこともないが,息を数える代わりに,われわれは,「念々正念歩々如是」と凝念する。 やり方は,「念々」と左足を出し,「正念」と右足を出し,次に「歩々」と左足を出し「如是」と右足を出し,これを繰り返えして歩いて行く。

実際にこの凝念をやってみると,数息観よりは呼吸に合せやすく,とくに歩行の速度を早やめてもやりやすいので禅堂内ばかりではなく,実際に道を歩く時,更にはかけ足の時にも実行でき,三昧の力を養いやすい。 数息観のときと同様に,凝念の時も心中に他の念慮を浮かべず純一無雑に念ずることが大切である。 実際の道路で行ずる時には安全な道を選ばなければならない。

 

2.作務

経行によって,ある程度修練を積んだ動中の工夫を,さらに仕事をしながらでも乱れることのないように修練する行が作務と呼ばれる。 いいかえると,坐禅における中核の静中の工夫を,様々の生活の営み即ち動態に移して,動作において工夫を続け三昧力を養う修行である。 従って作務は,単なる労働や勤労奉仕ではない。

非常に大切な禅の修行の一つである。 では,作務とは実際どのように行じたらよいか。 本格の修行の場である摂心会や修禅会,講習会などでは,普通「作務」という特別の時間帯を設け,参加者全員が集まって,簡単な作業をしながら特に綿密に動中の工夫に取組む。 その心構えとしては,段取り・真剣・尻拭いが大切である。

まず段取りは,仕事の計画・手順・方法・割りふり・必要な器材の準備などを行なうことである。 次に作務が開始され,仕事にかかったら,指揮者の注意を守って余念をはさまず,熟心に仕事になり切ってゆく。 これが真剣である。 決して雑談やよそ見をしないことが肝心である。 仕事の内容ほ,初めは簡単な草とりとか拭き掃除,ガラス磨きなどで,その具体的な仕事を通して動中の工夫が行なわれる。 真剣に仕事そのものになり切らなければ,三昧の力は養われない。

古人は【動中の工夫は静中の工夫に優ること百千万倍す】といい,真剣に行ずれば大いに道力がつくことを証している。 そして,仕事が終ったら,仕上げの点検・道具の後始末・引つぎ・報告などをしてしっかりと締めくくる,これが尻拭いである。

作務は,あくまでも道力を養うために行ずるのであるから単に与えられた仕事を表面的事務的にするのではなく,見えても見えなくても,自らの心の納得のゆくまで床を磨き,草を抜き,塵を拾う心掛けが大切である。 本格に坐禅の修業をしている道場を訪ねると,堂内が美しく磨かれ,庭が箒目も清々しく掃き清められている光景が見られる。 禅道場のたたずまいは,ただあたりがきれいであるという次元ではなく,作務が真に行ぜられているところから発する清雅な光が漂っている。          

有名な話であるが,昔,通天の鼎洲和尚が,ある日山門内で松の落莫を一つ一つ拾って居た。 これを見た侍者が “お手づから一つ一つお拾いになるにも及びませぬ。どうせ後ではきます故” と申し上げた。 すると鼎洲はつくづくと侍者の顔をみて“今の言葉は修行者の言葉とも思われぬ。 どうせなどと後をあてにするようでは,ほんとうの掃除は、できぬ。 一つ拾えば一つだけきれいになるものじゃ”と戒められたという。 まことに掃除はこのような心そのものの垢を洗い落す洗心の行なのである。

 

3 日常の工夫

さて,作務ということは,決して摂心会という場にだけ限った修行ではない。

元来,禅門では,日常の生活すべての中,つまり,行・住・坐・臥の間に,自己の心を磨いて行くのを本領としている。 禅は学問や哲学ではない。 人間形成のために行ずる実践の道である。 従って実践の場は,生活のいたるところに存在している。

元来修行には時と所の区別などないのである。 ところで,生活の中で動中の工夫を実践することは,至難のことであるが,各自の与えられた境遇において,しなくてはならない事柄にむかって,標極的に取り組んでゆくことが肝要である。

それは,世間の職業である専門の仕事とばかりは限らない。 学生は勉強三昧,母親は育児三昧,病人は療養三昧,或は遊ぶときは遊び三昧と自分のそのときに当面する主題にむかって,そのことになり切って,三昧に徹する努力をするのである。

生産性の高い仕事や高等の技術を要する仕事,創造的な仕事などは,やり甲斐を感ずるが,反対に余り経済的価値のない営みや,誰にもできる単純な繰返えし作業もある。 しかし,人間形成として心を磨き上げる禅の行の立場からみれば,それらは問うところでない。 

【病人は病気になり切るがよろしく侯】とは古人の有名な言葉である。 このように,今,ここで自分が当面する一事に真剣に取り組めば,心を磨きほんものの人間になって行く上に大きい力になる, これを「一行三昧」と呼んでいる。 よく仕事の鬼ということが言われる。 仕事に熱心なのは,結構であるが,それが自分の利益・名誉などを保つために汲汲として,他を蹴落したり,悪辣(あくらつ)な手段を弄するような所業であれば,たとえ成功したとしても人間形成のためには役立たない。

地位も名誉も知識も財産もあったとしても人間として貧しくては仕方がない。 インドのある人がほこらしげに「low living,high thinking」と言ったということだが,世間に名がなく,貧しい生活でも,三昧の意味をよくかみしめ,真心を投じて真剣に取り組み,本当に人間らしい心の豊かな安心した生活,堂々とした人生を行じて行くならば,それこそ真の禅的な生活といえる。 こういうと,それでほ緊張の連続で一寸も息が抜けないのではないかと思われるが,実は真の三昧とは,休む時間はほんとうに休み三昧,ねる時はほんとうにねむり三昧,お酒を楽しむ時は酒のみ三昧,遊ぶときほ遊び三昧を行じてゆくわけで,まことに自由であり闊達というほかはない。

楽しみ,その中に在りである。 禅は道徳ではない。また小乗的な戒を与えるわけでほない。 禅は,なり切る修行といわれ,正念工夫相続の行といわれる。 ことに当り物に接していつも正念を持続するように努力するのである。

そして,本当に正念になり切れば,楽しいそのすがたのままで自ら道徳に叶い,戒をおかさない人間らしい生活が開けてくる。 「正念工夫 不断相続」が禅の道を歩む者の最高の目標なのである。 一見これは,何でもないようにみえるが,しかし,これ程難しいことはない。 多年に亘って千鍛百錬しなければ,到達することはできない。 本当の人生を味わうためにかけがいのない日常生活を,失敗したら反省し,怠けたら初心を想い起こし,一日一日を一行三昧に徹し,正しく・楽しく・仲よく精一杯に生きたいものである。 (了)