禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

坐禅のすすめ 第3章『禅と生活』 第2節 禅と家庭生活(Ⅱ) p105~115 内田ふき

前節においては,家庭の道や家庭における修行について述べたが,こゝでは,現代の家庭の問題状況と,その中での生活の営み方について省みてみたい。

 

1.家庭生活とその教育の変化

戦前は祖先伝来の家系や財産・家業を中軸として家を守って行くのが家庭であった。

家庭内の秩序は,家長が責任と権限をもって指導し,家族は之に服従し,その間にはあたかも主従の如き関係がみられた。 家々では神仏を祭って崇拝し,それが家訓や,長幼の序の権威を裏づけ,いわゆる家父長制家族制度が確立していたのである。

戦後,新憲法のもとで民法が改正され,近代的家庭の原理として,結婚は家同志の縁組ではなく,男女両性の合意に基づくものとされ,家庭は横のつながりの夫婦生活を基調とするようになった。 家族は立場や経験の違いはあっても,基本の人権は平等であるという家族観が生れてきた。こゝに従来の家族制度は形の上で崩壊し,かつての家庭の秩序ほ父権のあり方と共に大きく変化し混乱を来している。

 

次に指摘される変化は,家業の衰退である。産業は高度に機械化され,職業は多様化し国民大多数は賃金労働者にかわった。 社会に出て職業に就き,家に帰って休息する,いわゆる職住分離が定着してきたのである。

父親は大部分の時間を職業生活に費やし,家庭責任を充分果し得ない状況が生れている。 従って家庭の中で真剣に働く父親の姿をみる子供ほ少くなり,むしろ,疲れて帰宅し寝ころんでいる父親をみて育つのである。

社会で苦闘している父親の姿を知らず,また接触交流する機会が少ない現代の子供はまことに不幸といえる。 このように激しい家の変化によって父母揃って家業を教えこみつゝ子供を育てた従前の家庭の機能は,現在殆んど失われてしまった。

例えば成人するまでにほ労働の尊さを教え,農業の基本技術をすっかり身につけさせた農村でさえも,今やその影は消えてしまった。 職業を身につける教育は,一般的な学校教育または企業の技術教育が家庭にとって替ったのである。 また人間らしさを育てるための家庭教育も大きく変化してきた。

特にどこの家庭でも永年行ってきた家風や家業に添った特色のある人問教育,とりわけ基本的な躾が殆んど行われなくなった事実は重大な問題となっている。 近代化の歩みほ,家庭生活に自由で解放的な気風を吹きこみ,生活技術の合理化や生活水準の向上をもたらしたが,かつてそれなりに人間を育ててきた家庭教育が崩れ,それに替る現代家庭にふさわしい教育のあり方が確立されず混迷の状況が続いているのである。

 

2.家庭の機能と現実の問題

ところで,本来の家庭の機能とはどういうものだろうか。端的にいえば,人間の新たな生命の創造(リクリエーション)の機能であるが,動物と違って人間の家庭の営みとしては,夫婦相和して,すこやかでかしこい子供を育て,互いに労働の疲れをいやして明日への活力を養い,生涯にわたって人間形成を計って行くことである。

家庭は人間存在のべ-スであり,人はその中で生き死んで行く。 誰にとっても,人間らしく生きる基本の場であるがとりわけ子供にとっては,人間性の基礎を培う唯一の場である。 しかし,現状をみると,家の変貌に伴って,家庭の管理とりわけ子供の養育の責任が母親の肩に大きくかかっているにもかかわらず,戦中戦後の混乱期に育った現在の大方の母親は,自分自身充分な家庭の躾を身につけていないため,わが子に人間らしい躾をすることが難しい状況である。

しかも,高学歴志向の社会風潮の中で,一流校を指向する育児の熱心さと情緒的な過保護の傾向とが共在していて,積極的な鍛練と厳しい躾をせず,溺愛し甘やかしに埋没してしまう。 特に父親不在,母子密着の育児にこの傾向が強い。

子供に迎合し,わがまま放題に育ててしまうのである。 また社会の繁栄を映して,家庭も小市民的で物質的関心とその充足に心を奪われて,希望する物は何でも与え,物を大切にする心を育てようとしない。 欲望を抑える力,苦しみに耐える力,生命を尊ぶ心を育てる厳しさに欠けてきている。 最近,家庭内暴力が問題となっているが,受験競争にまきこまれ,自由な生活を抑えられた子供たちが,父母に暴力をふるってその欲求不満を晴らすのである。 平素はおとなしく,家のそとでは決して暴力行為をしないのに,身近な肉身にむかっては,感情の抑えがきかず爆発するのである。

極端な事例では,父や祖母を殺してしまった高校生もある。 過保護によるわがままで自制心のない子供,人間らしい躾を欠く子供達の心の病いの現われである。 また競争から脱落するものは登校拒否をひき起し,ほては不良化するものが多く,親子共々学歴志向社会の歪みに押し流されてしまった結末は,悲惨である。

一方,子殺しも現代社会の病理現象である。大衆社会の中で孤立した未熟な母親が,子育ての自信を失って,子供を殺し棄てる事件が起っている。 母性の喪失時代といわれるわけである。 更に,現代の母親は家計の補助,自分の自立や生きがいのために,積極的に社会活動に参加する者が増えてきている。

両親が真剣に働くことは,子供によい影響を与えはするが,一両,家事の粗放化につながり,例えば朝食抜きの子供が増えるなど養育が充分できず,またいわゆる鍵っ子も増えて,それが時に非行の原因を生むのである。 繁栄の時代といわれるが,自由気ままな風潮が拡がり,離婚,親の家出,一家心中,性の乱れ,幼少年の非行などの家庭問題が増えつつある上に,子殺し・親殺しというまさに地獄のような事件が起ってきて,現代家庭に影響する社会の病根の深さは驚くばかりである。

これらの現象から推定されることは,現在の家庭生活が大小となく様々な問題を抱えで悩んでいるということである。 その悩みを脱し,本来の家庭のあり方に立ちかえるためには,平素の人間形成への努力の重要性を,親とりわけ母親が自覚しなければならない。 その責任は重いのである。

 

3.家庭生活のあり方

1)仲よく

普通,骨肉の絆で結ばれた家族は,他の集団と違って時に争いはするものの,社会の荒波に傷つき疲れて帰る家族をあたたかく受入れ,慰め励まし合う。 たとえ家族が社会から排斥され,あるいは犯罪を犯した場合さえ,これをかばい,共に苦しみながら一緒に立ち直ろうとする。 この苦楽を分ちあうことこそ家庭の良さであり愛である。

これあるが故に,誰にとっても家庭は心の安らぐ唯一の母港となる。 従って互いに仲よく暮しやすい。 しかし,その愛が,一旦盲目的な痴愛に転ずると,心を許し合い,遠慮のない間柄故に先に述べたような,救いのない陰惨な地秩の淵に転落する。 血縁は切ることができないものであるために深刻な葛藤となるのである。

そこで,家族が仲よく暮すためには,意識して互いにわがままを慎み,自覚して互いに迷惑をかけないよう努力することが大切である。 とくに幼ない子供には,その人間形成の基礎として,「わがままをしてはいけない ひとに迷惑をかけてはいけない」ことをしっかりと躾ける必要がある。

家族間ばかりでなく,社会に出て人々と暮す場合もこの克己心・自制力は仲よい人間関係を作り上げる礎地となる。 言うまでもないが,家族全員が一緒に実行しなければ躾の効果は上らない。

仲よく ということを,さらに掘り下げてみると,それは愛すべきわが子,わが親,わが伴侶に本来それぞれ具っている神聖な根源的いのちのすがた即ち仏性に合掌するということである。 その仏性を掴むには,どうしても坐禅の修行によって,迷蒙の我見の殻を破って其の自己の本心本性にめざめることが必要である。 それによって自己自身の仏性のみならず,すべての人々の仏性にも目覚める。

人の親たるものは,この人間形成の基本を,禅の修行によって身につけることが望ましい。 そして,それぞれの仏性は全く平等で且つ尊厳であると自覚されれば,自然と互いに合掌する生碍が説得力をもって家庭の中にひろがってくる。 立場や経験・力量には差別があるが,家族各人は本来皆平等で,互いに敬愛すべき存在であることが明らかにされ,ここに至って各自の人格の尊厳に合掌することは,わがままを慎み,ひとに迷惑をかけないことであると家族も納得でき,反省と感謝の生活がひらけてくるのである。

また骨肉の愛が痴愛に陥ちいることなく,すこやかでほんとうに仲のよい家族関係が生れるのである。 様々の問題をのりこえて行くために,実際に互いに手を合せて合掌することを実行しよう。 もし,それに抵抗があるならば,頭を下げて“ありがとう”“すみません”と言葉に出して挨拶する習慣を幼ない子供の時からつけよう。

競争と対立の原理に支配されている現代社会の風潮に対し,お互いの仏性にめざめ,押し流されることなく,互いに合掌しあう仲よい生活をひろげたいものである。 禅の世界で究極に目指すところの世界楽土の建設も,その一歩は一家庭内で,ほんとうに仲よく暮すことから始まるのである。

 

2)楽しく

いうまでもなく,一家族として,互いに苦楽を頒ち合う家庭生活は,子供の成長に示されるように,その苦しみの中に限りない楽しみを含んでいる。 人間らしさをとり戻し心の底から家族との団らんを楽しむことも家庭の機能として欠くことができない営みであるが,家庭の楽しみは,それに止まるものでほない。 家庭は憩いの場であると同時に,人間を人間らしく育てる場である。

ほんものの人間を育てるためには,どうしても家族の人間形成への行を工夫しなければならない。 そこに動中の工夫一作務を取り入れることをすすめたい。 家族がそれぞれの立場と分に応じて家庭内の仕事を分担するのである。 幼少の子供にも,年齢体力に応じた役割を与え,たとえささやかな仕事でも,その責任を果させる躾をする。

どんな小さな仕事でも怠けず真剣に行い,やりっばなしにせず最後まで責任を全うさせることである。 働らくことの厳しさと尊さ,責任のあり方を学びとらせることは,知育に偏った現代教育の歪みを正しい人間の営みに立ちかえらせる力となる。

怠けてはいけない。 やりっばなしにしてはいけない 過保護のため,鉛筆もけずれず,雑布もしぼれない現代の子供には,このような作務を通しての家庭教育が是非必要である。 そこに共通の歴史を歩む家族同志の喜びと,家のために役立っている自覚が生れ,楽しさは,生き甲斐に高まってゆく。 家庭労働を作務として行ずる楽しみは,自己錬成の楽しみであり,自己自身への合掌をよびさますこととなる。

人間形成の行を実践し,家族の問で道を求める喜びを共感しつつ,かけがえのない日々をほんとうに楽しく味わいたいものである。

 

(3)正しく

家族の間柄は,どのようにかくそうとしても,表裏がまぎれなく見えてしまう裸のつき合いである。 何よりも行為が雄弁に語る世界で,極端にいえば,言葉は無力である。 子供は親の生き方全体から学ぶのであって,人の親となる難しさと恐ろしさがここにある。 そこで,親としては,正直に飾らず精一杯生きるより方法はない。

自然のまま,ありのままに正しく生きることが肝要であるが,これは,人間の作った法律や道徳の次元で正しく生きるという意味だけではない。 虚飾のない純真な生活,天真流露の生活,いいかえれば,大自然に厳存する真理に合掌して生きることである。

この厳存する真理とは,如是法そのものであり,不生不滅の道である。 正しい生活とは,まことの生活であり人間形成の生活である。家庭のあり方は,家を支える親の人間形成への熱意如何によって大きく変ってくるので,親の責任をしっかり自覚して,禅による人間形成を家庭に導き入れることを強く望むゆえんである。 正しい家庭生活の実践の具体策は,互いに嘘をついてはいけない ことを守ることが重要である。

家庭の躾としては極めて当り前のことであるが,ここでは単に虚言を吐かないというだけではなく,己れ自身を欺かないことを含んでいる。 従って,ほんとうに正しいとは多年に修練し,高潔な境涯を得た人でないと実行は困難であるが,親としては,自らが自分の行動を反省しつつ,傷つき,倒れ,立ち上って正しく進んでゆくことである。

現代の親は子に対し自信を喪失しているといわれるが,それは親の生き方が道の裏づけを持たないからである。 親の権威を押しつけるのでなく,折にふれ,時に臨んで,具体的な行為の中で正しい生活の仕方を身をもって示したいものである。

今まで,家庭生活のあり方について,五つの戒をあげて,正しく,楽しく,仲よくの実行についてふれてきたが,親が人間形成の目標をまことの生活におき,自ら失敗したらやり直し,くじけたら勇気をふるい起こして歩むならば,子供にとって家庭は人間形成の環境によみがえる。 そのような脚下を照顧しつつ正々堂々と生きる親の姿こそが,子供にとってかけがえのない最良の教師なのである。 このような基盤を培うものこそが,一日一日を大切にし,深く掘りさげ,力づよい推進力をよびさます一日一炷香の静坐の行である。 (了)