禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

坐禅のすすめ 第3章『禅と生活』 第5節 禅と茶道 p125~133 内田ふき

わが国固有の文化の一つに茶道があげられる。

茶道は,まさに生活の中に根を下した日本的な味わいをもつ独特な文化体系である。 現在,茶の湯は,ますますさかんになり,多くの人々が,礼儀作法を習うため,あるいは風流の遊びとして,または社交の手段として関心を寄せ,大小となく茶会が開かれている。

 

しかし,今日流行しているこのような茶の湯は,果して本当の茶道とよべるのであろうか?。 その殆んどは,点前の順序や作法を覚えるに止まり,あるいは,日常と無縁な遊芸として生活から遊離し,更には道具を競い衣裳の華美を誇るなど,茶道の本質を見失う状況があるようにみえる。

従って茶の湯人口の増加は,決してそのまま茶道の隆盛と喜ぶわけにはいかない。 それでは,茶道の本質とは一体何か? 先ず,茶道の精神がいきいきと活溌に働いていて,その故に「茶道」と呼ばれる人間形成の道が樹立された当時の歴史をふり返ってみたい。

 

1.茶道の成立と禅

(1) 茶の発展の歴史は,鎌倉時代臨済宗栄西禅師が宋から種を持ち帰って茶園をつくり,今日用いられている抹茶(葉を粉末にした茶)の作り方,点て方,飲み方を紹介したのが始まりといわれている。

当時は,茶は,養生の仙薬として用いられ,これを受けついだ明恵上人が,茶の栽培を普及した。 禅の修行の際睡魔を払って坐禅行に専念するには,抹茶を飲むのが一番良いとすすめたので,禅院を中心に茶が広まった。

その後,道元禅師は,百丈禅師の定めた『百丈清規』にならって『永平清規』を制定し僧侶の日常生活の規律として,お茶の飲み方,仏前に供えた茶を頂く法,大衆にお茶をふるまう儀式などを定めた。

南北朝時代にかけては,中国より闘茶(お茶や水の産地品質をあてる遊び)が伝わり,大名武士の間に普及するにつれ,酒宴や歌舞,賭博を伴う贅沢で世俗的な遊芸に堕落したが,足利時代に入っては,将軍義政とその周辺で,心静かに茶を味わい風雅の世界に遊ぷ貴族的で芸術性の高い書院の茶が隆盛し,茶式が整えられたのである。

この書院の茶を学んだ村田珠光こそ,後世茶祖と仰がれた人である。 一休和尚について禅の修行をつみ,仏法も結局日常茶飯の営みである茶の湯の中に見出されるという,茶禅一味の立場から,書院の茶にわび茶の精神を導き入れた。

【此道 第一わろき事ハ 心のかまんかしゅう也】といって,自我を殺し尽すことの重要性を説き,慎しみ深くおごらず,主客互いに尊敬し合い,その心が自然と質実な風体となって外面に表われることを求めた。式法の茶が,心を求める道の茶にまで高められたのである。

そして,四畳半の草庵を創り,道具飾りを工夫し,人々の関心を物質的なものから内面を豊かに充実させる方向へと導いたのである。 その孫弟子の武野紹鴎は,珠光流茶道の奥儀をきわめると共に,大徳寺の禅僧に参禅し,わび茶を更に開拓した。

わび茶の心を藤原定家の和歌『見わたせば 花も紅葉もなふりけり 浦の苫屋の秋の夕暮』にて現わし,絢爛たる花紅葉の美を否定しつくした,さびしい浦の苫屋の秋の夕暮の枯れ枯れした寂静の美を茶の湯の理念としたのである。

 

こうして,茶の湯は,厳しく無常な戦国時代を経つつ,禅で培かった精神をとり入れ,一切の物質的なとらわれから脱して,自由で酒脱な無一物の美の世界に純化されていった。 そして,紹鴎の弟子千利休によって大成されたのである。

利休は,同じ大徳寺にて参禅し,高い境涯を得た禅者であるが, 【小座敷の茶の湯は 第一仏法をもって修行得道することなり】 と『南坊録』に記されているように,茶の湯は仏法即ち禅を修める道であることを宣言している。

その一つの表われとして,茶室に入るに当って,世間における地位名誉を捨てることを,何よりも肝要とした。 主客ともに露地の手水を使う心掛けを示して, 【此露地にむかい向ハるゝ人 互に世塵の汚れをすゝく為の手水鉢】 と述べている。

 

露地は単なる路ではなく,世間を出て直心の交わりをするために通らなければならぬ清浄の天地であるとした。 手水鉢によって,手の汚れはもちろん,心頭の汚れを払うことを強調した。 四畳半の茶室をさらに三畳二畳に縮小し,竹の花入れや自在などを工夫し座敷飾りを簡素にして,珠光のわび茶をさらに枯淡なものに完成させたのである。

こうして大成された中世の茶道は,利休以後,直系の子孫が継承する千家を中心に,門弟たちによって,幾多の流派が伝えられている。 そして徳川中期に至って,『禅茶録』が完成され,【茶意は即ち禅意也】という積極的な「茶禅一味」の主張が説かれた。このように.仏教特に禅の生命が,日本の茶道の根底に脈々と流れその形成に預っているのである。

 

2.茶事三昧

その『禅茶録』の「茶事修行の事」には,次の一節がある。 【さて,茶事に託して自性を求むるの工夫は他にあらず,主一無適の一心をもって,茶器を扱う三昧の義なり,たとえば,茶杓を扱はんとならば,其の茶杓へのみ純ら心を打入れて,余事を微しも想はず,始終扱ふ事なり。 又,其の茶杓を置く時にも,前の如くに心を深く寄せて置くなり。 是は茶杓に限らず,一切の取扱ふ器物,いずれも右の意に同じ。

又,其の扱ふ器物を置きはてて,手を放ちひく時,心はすこしも放たずして,次ぎに扱はんとする他の器物へ,其のまゝ心を寄せうつして,何処までも気を縦(ゆる)べず,形の如くにして点ずるを,気続立とは云へり。只,茶三昧の行ひなり】

これは,禅でいう三昧を茶事という行に託して展開したものに他ならない。動中の工夫そのものである。 第2章第3節に述べられたように,三昧とは,「正念の相続一貫」「心境一如・物我不二」「正受にして不受」の三つの意味を含みもっているが,点茶の一念だけが,終始一貫,すこしの切れ目もなく,純粋に持続し,茶筅を振る時は振り三昧,茶碗をすゝぐ時はすゝぎ三昧というように,一点の雑念も思慮分別をまじえず「正念の相続一貫」で茶を点てることを示している。

また茶杓を持って茶杓を意識せず,茶筅を扱って茶筅を忘れ,茶碗と自己と「心境一如・物我不二」となるのである。 なお,亭主と客とが,それぞれの立場に立ちながら,しかも両者が肝胆相照らして茶を楽しむ茶境を「無賓主の茶」というが,これは「自他不ニ」という意味に,最もよくかなう妙境といえよう。 さらに,茶杓を置いたら心は自然に移って柄杓で釜の湯を茶碗に汲みいれ,柄杓を置き終ったら心は淀みなく茶筅に移るというように,すらすらと自然に茶を点てゝ後に心を止めないのが「正受にして不受」ということである。

流れるようにお茶を点てるのが理想である。これが気続立である。

 

古来,点茶の作法には細やかなきまりが確立しているから,己れのはからいを捨て切って,純心に一手一手のけいこを重ねて行くならば,形だけでなく心底から“われ知らず,よきところに叶う”妙境が開けてくるであろう。 作法や形というものも,そうなって始めて本当の意味に叶うわけである。

以上のような茶事三昧は一朝一夕に行ずることはなかなかできない。 しかしまことの茶道というものは,この基本の行を離れてはない。

 

『禅茶録』には,【器の善悪を択(えら)ばず,点ずる折の容態を論ぜず,たゞ茶器を扱う三昧に入りて,本性を観ずる修行なり】と述べられている。

茶事三昧を通して,始めて茶の湯と禅が一味になりうるのである。 こう見てくれば,まことの茶道とは,禅による人間形成の行を日常茶飯の中に具体化したものということができる。

 

3.茶道と日常生活

茶禅一味にまで高められた茶道は,単なる遊芸や社交儀礼や風流に止まらず,茶によって人間形成を計るという意味を含んでいる。 茶席や人前で型通りのお茶を点てるだけの限定されたものではなく,日常の生活そのものが茶道に叶うように高められることが理想である。 茶道を習うことは,茶道によって自己変革をして行くことである。

それは自己自身と,その生き方そのものを根底から問い直すことでもある。 自分のごく一部分がそれにかかわるという小手先のけいこごとではなく,自分の全存在が深くかかわって日常的に人間形成をして行くことである。

 

ところで,【和敬清寂】は,茶道を習う者にとっての最高の精神的な規範といわれている。 この境地を得て茶を楽しむことが茶道の目標ということができるが,ここに至ることは,奥深く容易のことではない。

幸い先人たちによって,そこから工夫し導き出された茶の世界が開かれており,そしてそれは,味わい深く芸術的な実の世界でもある。 茶道には,古来,有形無形の格調の高い磨き上げられた豊かな文化財が伝わっているのである。

客に対する細やかな心入れや,作法に示される心のこもった道具の扱い,洗練された動作の美の如き無形のものを始めとして,建築としての茶室,庭園とし七の露地,工芸品としての茶道具などの有形のものに至るまで,それは禅で培かった眼で選びとられ,好まれてきたもので,生活に根ざしながら,しかもそれを超える総合的な茶の真の世界を形成している。

【器の善悪を択ばず】の語があるといっても,多年にわたって巧まずして蓄横され,洗練されてきた有形無形の文化財は,まことに驚くべきものである。 それは世界に誇ることのできる独特の文化体系である。 我々は幸いなことに,今日,直接間接にその文化に接することができ,そこから尽きることのない日本の美,日本の心を汲みとることができる。 このような茶の文化から深い啓発を受けることは,必ずや豊かな人間形成を約束するものであろう。

お茶を飲むというまさに日常茶飯事を通して,禅の行を,その茶の豊穣の文化と共に,日常生活にとり込むのが茶道である。 本当に人間らしく生き,更に本物の人間になるために,茶道に親しみたいものである。そして,心のこもったおいしいお茶をゆっくりとお互いに味わいたいものである。 (了)