禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

禅修行の階梯を考える(27)「禅と茶の集い」便り(272)

今月も第4週を迎え,太田ワークショップの週となりました。 いつもは45分(一柱香)の坐禅をしたあとに,太田先生の講義に入るのですが,今回から新しい試みとして最初の坐禅も調息山のガイドマップに沿って一合目から四合目まで坐禅実習を進めます。

普段の坐禅は各自のテーマに沿って数息観でやられる方もいるし,「無」となりきる坐禅をしている方もいらっしゃると思いますが総じて一点集中型の瞑想(サマタ瞑想)にちかいと思います。

 

今回のガイダンス付きの坐禅の場合,身体の感覚に繋意するのですが,次々と繋意する場所や感覚を変えて,それによってどう心が変わるのかという「気づきの瞑想(ヴィパサナー瞑想」に近いマインドフルネス的手法をとっていらっしゃるようです。

面白い試みですが先生の講義時間がどんどん伸びておりますので無理せずに導入いただければと思います。

 

中休みを挟んでの講義は新春ということでか別刷り資料が配布され「見たらみたまま,聞いたら聞いたまま」というテーマの4ページの資料でした。

中でも私が太田メソッドの核心と思われる文章を引用すると・・・

感覚の領域にとどまって,イメージ・連想,知覚・気づきの領域にはいらないということは情報の流れを感覚にとどまっているだけではなく,ヒトが乳幼児期に機能していた回路を再利用することになる

・・・という文章にはっとさせられました。

その回路の活性化こそが現代社会人が忘れがちなヒトとして生まれてきた喜びや慈悲のこころを取り戻す身体的な行なのであり,これが太田メソッドなのかなぁとボンヤリと思っていましたら口に出てました。

太田先生の感想は「まずはね」とのことで,まだまだ私の理解は表層的なようで,なかなか奥義までたどり着くのは難しいですね。 

 

でも太田先生のワークショップはもちろん禅と茶の集いでの坐禅は語弊を恐れずに言えば苦しくない,真面目過ぎない坐禅だと私は思います。

プラユキ・ナラテボーさんの著作の中に下記のような文章があります。

精神状態がちょっとすぐれないので、「瞑想で解決しよう」と思いたつ。

けれども、集中が思うように続かず、「俺はダメな人間だ」と考えて、無能力感や絶望感に陥ってしまう。

心を楽にしようと思って始めた瞑想が、いつの間にか「苦悩の増幅法」にすり替わる。

しかも本人はそれに気付かずに、「いつかは成果が……」と自己を叱咤しながらやり続ける。

 

そのうちに種々の精神障害を発症。心がさまざまな不調のシグナルを発していたにもかかわらず、無理してやり続けることで症状を悪化させてしまうのである。

 

 坐禅が心を追い詰めるなんてと思われるかもしれませんが,結構ありがちのことなのかもしれません。

今年も肩肘ばらず,ゆったりと坐禅とお茶を味わえる一年にしたいなあと思いました。

 

来週は第五週,久しぶりに大石さんのお手前で呈茶があります。

もちろん輪読会,坐禅もありますのでお時間のある方はご参集ください。(Ym)