禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「禅と茶の集い」便り(275)

                    令和2年2月21日  記録者・栗田和夫


1.はじめに


 今日は、午後3時半から「千葉市を美しくする会」のまつり部会が開催されました。主な議題は、昨年の千葉の親子三代夏祭りの事業報告と決算そして次年度の事業計画案と予算案、それから令和2年度の部会長・副部会長の選出についてでした。


毎度毎度、忙しい忙しいといいつつ、またまた、副部会長なるものを受けてしまいました。
とまあ、相も変わらず、会議を終えて、ちょうど午後5時から、お茶の準備に取り掛かっているところであります。

 

2.読書の時間


 いよいよ「ブッダは、なぜ子を捨てたか」の最後の第五章「ブッダは今、どこにいるのか」の最終章へと読み進んできたところである。

「仏教発祥の地での重い課題」では、なんとも想像を絶する人間差別の現実について語られている。インドの「国民宗教」たるヒンドゥー教イコールカースト社会においてであるが、なぜに人間は、差別・不平等・非人間性なるものを生み出してきたのだろうか。


 そして最後のテーマとして「われわれは今、林住期の中で」、この日本列島に、はたしてブッダはいるのかと問うている。

ブッダの教えは、伝説化され神話化され、現在われわれの心を躍動させるような、生き生きとした表情はもうそこには見つけ出すことはできない。
 今、われわれは、おそらく「林住期を生きている」であろうと、思わずにはいられないと著者は言う。


 まさに、森林に隠棲して修行する時事であると言わしめている。


 耳を澄ましたみよう、ブッダの声が聞こえてくる。気の遠くなるような時間と空間をとびこえて、ブッダの言葉は天上から聞こえてくる。

「足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の家で貪ることがない。」
 

ブッダの天井からの声を聴いて、かくありたいとの思いはすれど、現実は、雑務に追われ、心安らぐことはなく、誠に、情けない限りであります。


 さてさて、そんなことでこの読書は読み終わろうとしておるのですが、あとがきでは、面白ことに、「阿弥陀如来や釈迦如来ブッダをはじめとして、観音菩薩不動明王地蔵菩薩も」もはや伽藍の名部にはおられない、広々とした庭や自然の大気に全身をひたして喜びの声をあげているのかもしれない。


 まさに、その通りだと私も思わずにはいられないと、大自然の大気に耳をそばだててみました。
 
3.呈茶から


 本日は、なかなか良いお菓子がなく、苦慮しましたが、金ゴマ餅で、白ゴマが金色ということで、そのような名がついているようです。

 

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そして、茶花ですが、久しぶりにOさんに持参してもらいました。


侘助です。この花は、ツバキ科で常緑樹、まさに寒中に咲く、冬の茶花の王様で白い一重の小さな花を付けます。

 

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 今の時節の花は、種類は少ないですが、春を告げる花としては、梅の花はなんともうれしいものです。そして、初春の香りとしは、スイセンに勝るものはないでしょう。

 

寒い時のジョッキングでも、その香りは香しいもので、楽しみにしているものの花の一つでもあります。
なお、本日のお茶席のお客様は、八名でした。

 

4.おわりに


 寒さもさることながら、新型コロナウイルスとやらに、感染拡大が懸念されてます。
明日の土曜日は、なんと、私の「まちづくり公開講座」~複合災害に備える~が、千葉市生涯学習センターで開催される予定なのですが、ちょっと心配なところです。


さて、来週は、太田先生のワークショップが開催されますが、いつもの時間より早く午後五時からご指導されるとの連絡が入っております。こうご期待ください。
                                     以上