禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

盤珪禅師の不生禅って・・・涼しい風

またまたコロナウィルスの再流行期と言うことで,日本各地で自粛の四連休となっていると思います。

今日の祝日は東京オリンピック2020の開会式を国民みんなで祝おうとして特設されたスポーツの日なわけですが,残念ですがスポーツどころではない状況が続いてます。

 

いつもの金曜なら禅と茶の集いで皆に会えますが祝日で休みのため,部屋に散らかった本の片づけをし始めました。

のですが・・・「あれ?こんな本いつ買ったっけ?」で「どれどれ」と本を開いて読みだして・・・というよくあるパターンでなかなか進みません。

まぁ連休もあと2日もあるので,庭掃除も部屋の片付けもゆっくりやることにしてお昼前から本腰を入れて読書し始めました。

 

本のタイトルは「鈴木大拙全集第一巻」

確か中古で安かったので衝動買いしたのですが何せ昭和43年発行なので字体が古くて数ページで断念して「積読コーナー」行きになった本でした。

 

しかし最近,横田管長さま,細川和尚さんからも盤珪禅師のお話をお聞きして,多少基礎知識が入っているせいかなんとか読み進めております。

 まだ本のさわりの部分ではあるんですが「不生禅」ってすごいですね。「禅宗」というよりまさしく「仏心宗」かもしれないですね。

 

大拙先生が禅の思想史研究の冒頭に盤珪禅師は実に日本の生んだ禅匠中の最も偉大なる一人」と紹介されております。

盤珪禅師曰く

「殊に若き時分からして,身どもは鈍にござって,人のしらぬ苦労をしまして,いかい無駄骨をおりましたわいの。

其むだ骨をおりました思いが忘れられず,身にしみましてござる故に,こり果てて,皆の衆にはむだ骨をおらしませずに,畳の上にて楽々と法成就させましたさに,精を出して此やうに,毎日毎日出まして,催促するでわいの。」

 

 つまり盤珪禅は自力での悟りを求めるのではなく,「仏心」を信じ生きることで法成就できると説いていらっしゃるわけです。これって易行??浄土門キリスト教などに近いですよね。

 

また大拙先生は

「禅は元来選ばれた人たちによりて修得せられるもので,一般的なものではない。

これは必ずしも禅には限らぬ。誰もが書家にはなれぬ,学者にもなれぬ,お医者にもなれぬ。専門の技術の習得は決して容易なものでない。(中略)盤珪の不生禅は実に此大悲心から工夫された声明であった。」

 

ともお書きになっております。自分都合の部分引用なのでかなり偏った解釈かとも思いますが自分としては少しだけ盤珪禅の魅力が見えてきた気もします。

 

細川晋輔和尚さんは『盤珪永琢と不生禅』というコラム最後に

「禅は苦行ではない。無理することは必要ではない。できることなら皆には,厳しくつらい修行をすることなく気づいて欲しい。

 誰もが幸せに生きてほしい。

『不生禅』には宗教家・盤珪禅師の深甚たる慈悲の心とも言うべき「願い」を感じずにはいられないのです。」

 と締めくくられております。

 

皆がみな,坐禅ができる訳ではないし,まして老師に独参するなど僧侶を目指す人たちのためにあるものかとも思い始めているので特に心に響いたのかもしれません。

嗣法のため一箇半箇を鍛え,選び抜く厳しい修行も禅ではあるんでしょうが,それができる体力・知力に恵まれた者にしか見えない,感じられない世界だとしたら悲しいですね。

 

私は「禅は我々みなのこころとカラダを通り抜ける涼しい風」であって欲しいと願っております。(Ym)

 

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