坐禅を始めたころに不思議だったのは,なぜ坐禅の前や後に「法華経」を読誦するのか?ということがあったように思います。
単純に「法華経」というと日蓮宗??と連想しますし,実際に普門品第二十五を読み上げると観音菩薩の不思議な力を次々と紹介しているお経でありなんだか禅宗の教えとはかなり違う他力的なもので違和感を感じたものです。
その他にも坐禅堂には「文殊菩薩」を掲げ拝礼したりもしますので余計に混乱したものです。
円覚寺においても「延命十句観音経」や「観音和讃」などを諷誦することが良くありますが,日曜説教などで横田管長さまが「信じる心」についてお話されることが度々あり,ようやく最近になって禅宗における観音様の意味というのはもしかしたらこういう意味なのかな?と素人ながら考えがまとまりつつあります。
横田管長さまが「延命十句観音経」に注目しはじめたのはちょうど10年前の東日本大震災が契機のように初期の著作『祈りの延命十句観音経』に記されております。
元々は「十句観音経」だったものを,生きるのが大変な多くの民衆を救おうとされた白隠禅師が「延命」という今でいうキャッチコピーを冠され,そして親切丁寧に「延命十句観音経 霊験記」という解説本まで出版されてその普及に力を入れられたそうです。
江戸時代でも「飢饉」「干ばつ」「病気」などなど民衆の生活は坐禅をしている余裕などなかったのでしょう。
たしか白隠禅師のいらした時代は宝永の大噴火があって静岡県が未曽有の災害に見舞われたこともあるのでしょう。
現代でさえ実際に自然災害を前にすると人は呆然となり,言葉も望みも失い,そうした人々に坐禅を勧めるわけにはいかないでしょう。
それでは禅宗ではそうした人たちにどう応えていくか?
白隠禅師も横田管長も「観音様への祈り」という信心を見出されたのではないかと思いました。
2/14のブログ記事とも重複しますが,坐禅や公案修行できる方はごく一部の恵まれた境遇にいる人でありそれ以外の方が圧倒的に多い世の中で禅宗として足りない要素を補完してくれるものが観音様であり,観音経なのかな・・・と思います。
コロナ前までは土曜に開催される白山道場の坐禅会の帰りに,よく浅草寺の読誦会に立ち寄らせていただいておりました。
一般の観光客が入れない五重塔の中での会講であり無料体験もさせていただけます。
白山道場の坐禅会はもちろんのこと,観音様の読誦会も再開が待たれます。(Ym)