禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

合掌礼拝 「禅マインド ビギナーズ・マインド」より 「禅と茶の集い」だより(123)

(8月6日(金)千葉中央コミュニティーセンターにて)
 
午後6時の開始時刻に会場の和室に着くと、まだ誰もいませんでした。
 
あれっ、あまりに暑いから出足が悪いのかなあと思いながら部屋のカギをとりに行き坐禅の用意をしていると10分くらいの間に10人の人が来ました。
 
少し遅れて読書会から始まりました。「禅マインド ビギナーズマインド」の続きです。
 
今日読んだところは、合掌礼拝です。
 
皆さんは、毎日の日常で合掌することはありますか。
食事の前などに手を合わせる人は時々見かけます。
家に神棚や仏壇がある人は、合掌する機会がありますね。
特に何らかの信仰心がなくても合掌して頭を下げると日常が変わるという話を先輩から聞いたことがあります。
 
今日読んだところで、合掌礼拝について非常にわかりやすく書かれている最初の部分を引用します。
 
 合掌礼拝することで、私たちは自分自身をあけ渡します。自分自身をあけ渡す、というのは、自分の持っている二元的な考えを捨ててしまう、ということです。したがって坐禅において、坐る修行と合掌礼拝の間に違いはありません。普通、合掌礼拝をする、ということは自分自身よりも尊敬に値するものに対して行います。しかし、ブッダに合掌し、礼拝をするとき、あなたはブッダというものに関していかなる考えも持つべきではありません。あなたとブッダと一つになるのです。あなた自身が仏です。あなたがブッダと一つになるとき、存在するものすべてと一つになるとき、「存在している」という言葉の意味が分かります。二元的な考えを捨ててしまうと、すべてがあなたの師となり、すべてが尊敬の対象になるのです。
 
これを読んで、私はとても納得がいったのですが、なかなか実感がない人も多いようでした。
普段、神社やお寺に御参りに行って何かお願い事をするというのとはだいぶ違います。
 
合掌は分かっても、礼拝となると道場の摂心などを経験したことがないと、どんなことをするのかも知らない人がいたので、私が実際にやってみました。
コミュニティセンターではこんなことはしないので、だいぶ違和感があったかもしれません。
 
お茶の時間に話の続きをしましたが、チベットの人が五体投地をして巡礼する話なども出ました。
 
鈴木老師はこの本の中で、大いなる心<ビッグ・マインド>という言葉を使っていますが、それに対して合掌するというのは、自分が自分に対して合掌しているということだと思います。
 
私自身の日常で数えてみると一日10回くらいは合掌し、1回は礼拝まで行っていますね。
かなり日常生活の中にとけ込んでいます。
  
 
お茶の後は、合掌して坐禅を始め、終わった時にはまた合掌しました。
 
 
来週は、8月12日。7時から始まります。
 
なお、再来週、8月19日は房総道場で摂心があるので禅と茶の集いはお休みです。 
 
途中からの参加もできます。
 
お待ちしています。
 
義存
 
「禅と茶の集い」について詳しくは、コチラ
問い合わせ先s.s.gison@nifty.com