禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

人は死ぬとどうなるか 「禅と茶の集い」だより(67)

暖かくなりましたねと書いていたら、もう夏が来たのかなというような日が続いています。

今日(2015年5月16日)は第3週なので、まずは読書会から。
ネルケ無方著の、「日本人に宗教は要らない」の続きです。
まずは、ネルケさんから見た日本人の死生観から、

 「私は無宗教です」という日本人はかなりの数いるが、欧米の無神論者、生粋の唯物論者のように「死んだら“無”になるだけだ」と、断言するまでではないだろう。
 また日本人は、「亡くなったおじいさん、おばあさんが、いまも天国から見守ってくれている」との感覚を持っている。「おじいさん、おばあさんが、地獄で苦しんでいるかもしれない」とは、決して考えない。天国はあってもいいが、地獄はあまり考えたくないという、日本人の死生観がここにあるように思う。
 キリスト教徒は、天国と地獄があると信じている。イエス・キリストを信じていれば天国に行ける。信じないものは地獄に落ちる。明快だ。
 
読書会に続いてのお茶の時間も、この話で盛り上がりました。
確かに、お葬式でもない限り自分が檀家となっている寺の宗派さえ気にしていないのが普通の日本人かもしれません。
 
初詣のときも、そのお寺がどの宗派に属しているかを気にしていない人も多いと思います。
まあ、神社でもお寺でも行くという人が大半でしょうから。
 
禅と茶の集いのメンバーも、自分が田舎の実家の墓に入ると考えている人は少ないようで、散骨とか、樹木葬はどうかという話が出ました。
多分多くの日本人には、遺骨を粗末には扱わないという習慣があるのだと思います。
唯物論者は、遺骨はゴミとして捨ててしまうのでしょうか。
 
ちなみに私の家の墓は公営の無宗派の公園墓地にあるため、どこのお寺とも関係なく、戒名もなしです。
多分、これは稀なケースでしょう。
私と亡き父が相談して敢えて檀家をやめてこうしました。
私が坐禅を続けているせいももちろんあります。
 
生きているうちに仏になるのであって、死んで戒名をつけてもらって成仏するなんてまっぴらごめんだと思っています。
 
生きているうちに、本当に仏になるのは大変なことですが、これは挑戦でもあります。
家族に受け入れられているかといえば、「まあ別にいいんじゃない」という気楽なもので、たいして気にしてはいないようです。
 
親戚からは、「○○ちゃん(私の名前)はいいけど、子供たちはどうするの」と、不評というか、かなり変人だと思われているようですが、父も私もまじめに自分の生き方(死に方)を貫いた結果、こうなったので、後のことは後の人に任せます。
 
個人的なことを書きましたが、坐禅をやっている人がみんなこうなるわけではありませんので、気にしないでください(笑)
 
今日のお茶のお点前は大石さんでした。
お菓子は鹿児島の「かるかん」と「蕎麦板」でした。

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大石さんからの提案で、次回からは、各自が自分の飲むお茶は自分が点ててみることになりました。
これは面白いかもしれません。
 
お茶の後は1炷香(45分)の坐禅をしました。
 
来週は、第4金曜日の2015年5月22日なので、7時から坐禅
8時からは太田先生による坐禅ワークショップです。

ホームページでも紹介していますが、2015年6月5日から26日までの4週にわたって「禅体験教室」を開催しますので、どうぞご参加ください。
体験教室の中で、太田先生には、4回目の26日に「脳科学と禅」というテーマで精神科医の立場からお話をしていただきます。
 
お待ちしています。
 
義存 合掌