禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

坐禅のすすめ 第3章『禅と生活』 第2節 禅と家庭生活(Ⅰ) p98~105 白田貴郎

1.家庭の重み

人間はどんなときでも,ただ一人で生きてゆくことはできない。

必ず多くの人達と協力しあい共同の生活を営み,社会を形成して生きなければならない。 動物も,集団を作って共同の生の営みをなすが,人間の社会生活との間には本質的な違いがある。

人間の場合は,動物のように種の共同体に埋没せず,個人個人の自律に基づいて.理念や目的を立てて社会を自覚的に形成するのである。 従って人間の社会には,家族のような血縁的な共同体から,多種多様な市民社会における人間関係の共同体,更にはそれらを包む大規模な国家のような法的政治的な共同体にいたるまで,極めて複雑な重層的な絡みあいがみられることになる。

 

このような複雑な様相をもつ人間の社会生活の中で,人類の歴史を通じて常にその基盤の位置にあったものほ,家庭である。 生産形態が農耕を中心としていた古い時代は勿論,高度の機械化が行われている現代の工業社会においても,この基本に変りはない。

人間の一生が人間形成の一生であるとすれば,その人間形成ほ同時に社会形成でもなければならず,家庭というものがすべての社会生活の基盤であるとすれば,家族における家庭形成の意義は,極めて重く,且つ大きいといわなければならない。

 

禅の修行というものは,人間形成の基本を培うものであり,われわれの修行が,家を捨てる出家のそれと異る在家の修行である以上,その修行そのものの内実が深く家庭にかかわるものとなることは当然である。 禅の修行が真実で実りあるものであるかどうかは,その家庭生活がどのように営まれているかということによって証されるであろう。

正しい修行の行取は,正しい家庭の建設と不二一如なのである。

 

元来「家庭」とは,男女が結婚して共同の生活を営む「家族」という意味をこえて,家での生活の団欒の中で人間形成が行われる場であるとの意味を含んでいる。

古来,結婚には厳粛な宗教的儀式が伴うが,それは結婚がただ男女の愛情のみによる結ばれだけではなく,新たに神聖な人倫をつくり,その道を形成してゆくことを意味するからにほかならない。

結婚は,男女の愛と敬を要件とすることはいうまでもないが,そればかりでなく,新たに生れる子の親としての責任を生ぜしめるものである。 即ち二人は子に対して身体的な生育の責任を負うばかりでなく,正しい人間として健やかに養育する教育の責任をもつことになる。 その点で,人の子の「教師」となるのである。 しかもその責任は,子に対してばかりではなく,同時に社会に対しても生じる。 かくてこそ結婚は,そのような家庭の形成の始点として人間のいのちを正しく形成してゆく神聖な意義が付与されるのである。

 

まことに家庭は,人倫の基本でなければならない。 禅の修行は,仏の誓願をいだいて世界楽土を建設してゆく行であるが,正にその故に先ず家庭において正しく・楽しく・仲のよい楽土が如実に建設されねばならない。 このような結実を含まない修行は,その眼目を失っているものといわざるをえない。

 

2.家庭における道

孔子に源を発した儒教は,その没後いくつかの流派に分れるが,その主流をなしたのは曽子から子思・孟子に嗣がれた道統であるといってよいであろう。 この流れの教は,家における道を中心として説かれた。

論語』の中で,曽子は,孔子の“吾が道 一以て之を貫ず”との語に対して,“唯(ハイ)!”と答え,それを後で“忠恕のみ”と解説している。 この「忠」というのは,己れを欺かぬこと,自分に誠実で責任を貫ぬくの意であり,「恕」とは他に対する温かい思い遣りである。

この忠と恕が一であるとは,それらが畢竟人間のまことから発する真情の流露で,己に対しては忠,他に対しては恕となるからにほかならない。 曽子・子思においては,このような人間の道,家を中心として,孝として説かれた。 ここで注意しなければならないことは,「まこと」には差別と平等の両面があって,家についてみると,儒教の場合は縦の差別の秩序に重点がおかれ,キリスト教などの場合では,成員の人格的平等に力点がおかれている。 しかしこの両面は,一なるまことの両面であって,その一方のみをとりあげて他を無視するのは,正しいとり上げ方ではない。

わが国の状況をみると,戦前では『教育勅語』における縦の「父母に孝に」が強調されすぎ,戦後では逆に人格の平等な尊厳が強調されて差別の面が軽視されがちである。 戦前の道徳が,家と国家とを直結せしめて差別面のみを強調して全体主義的閉鎖性の欠陥をもち,市民社会や,個人への配慮や自覚に欠けていたのに対して,戦後では平等面のみが強調されて,利己主義に堕して家のもつ人倫的秩序の本来性が見失われているといってよいであろう。

戦前における誤りと同様に,現代における孝心の欠落は,人間の本来性たる「まこと」の開示に関して不備のあることを示している。 そしてそれは,わが国における健全な宗教的基調の喪失と深くかかわっているようにみえる。 現代の国民教育の基本問題の一つである。 実に孔子において忠恕といわれた人間のまことの心に発し,正しい平等な人格の尊厳をふまえた孝であるならば,孝は人間の道の根幹であり,それによって社会生活の基調を正しく培うものとして,百行の基といってよいであろう。

この基本は,歴史の古今,洋の東西を通じていささかも変ることはない。 禅の修行の眼目ほ,迷妄の我見を殺して人間の本来性たる仏心を開示悟入せしめるにあるものであるから,その修行によって家庭における人倫の道も本来的に甦ってくるのである。 親への子の孝心は,子に対する親の慈心と相即し,更にそれが夫婦における和と兄弟姉妹における友と相入する。 従ってもし親子と夫婦と兄弟姉妹との間に何かの齟齬があるとすれば,それは家庭におけるまことの開示が阻害されているためといってよい。

 

3.家庭における行

ここに家庭における禅の修行について一言しておきたい。 家庭における坐禅の行は,身心のすこやかさを甦らせ,合掌の心を醸成し,ゆるやかではあるが,人間の生の本旨である人間形成の歩を前進せしめるものでなくてはならない。

そのような実りの中で,本格の禅の修行が十分な第一義的な意味をあらわしてくる。

いまその具体的に考慮さるべき事柄をいくつかここにとり上げてみることとする。 先ずこのような本旨が発揮されるためには,実りある日課が工夫されねばならない。

 

自然の流れに変化のリズムがあるように,人間の時間にも意味のこめられた節目(ふしめ)というものがある。 1年は12ヵ月,1月は30日,1日は24時間として単位によって区切られ,その中に大きくは国家的な行事から土地の伝習,更には労働と休養の週期としての曜日が刻印されている。

人間の行は,この時間の節目の中で適正に位置づけられ,家庭の成員各自の独立した行を互いに邪魔することなく,しかも協同して勉学や教育や団欒が無理なく営みうるようにスケジュールの工夫がされなくてはならない。

このような工夫のないところでは,無駄といろいろな齟齬が生じやすい。 またこのような工夫によって禅の修行に対する自己策励と理解と協力が生れてくる。 ひとりよがりの独善ではなく,他の家族の成員に対する深い配慮と温い思い遣りが修行の前提に存在しなければならないのである。

 

日課の中で重要と思われる行事は,一日一炷香の坐禅,専門職業のための勉学・子供の教育,食事,家事,団欒,娯楽等であろう。

この中,食事のもつ意味は重い。 食事は・生物として生存に必要な栄養の補給のほかに,それ自身一つの楽しみでもあるが,更には人間的反省の契機でもある。 禅道場では・食事の前に『食前の文』が唱えられ,食物そのものやこれを作ってくれた人々に対する感謝と,自らがこの食事に値する行をなしているかどうかという深い反省がなされ,道心の振起が誓われる。

昔 百丈和尚は,【一日作さざれば 一日食わず】といい,それを身を以て実行した。 これは,謂うところの合掌のこころである。 家庭における営みが,合掌の心を育てるものであるものとすれば,食事に当っての合掌の実践は,一つの重い意味をもつものといえよう。

 

人間は世界や環境を作るが,また世界や環境に支配されやすい。

住居というものも,与えられた条件の中で人間形成にふさわしく整備されなければならない。真実の茶道にみられるような清潔で華美に偏しない質実さと趣きとが望まれる。 また身につける衣項も同様に工夫がなされて然るべきであろう。

そして香りのある,心から楽しい家庭が築かれてゆくためのゆとりが醸成されるように工夫したいものである。 家庭は,すこやかさを育てる人間形成の場であり,すべての社会生活の基盤である。 それは合掌の心を育てる場でなければならない。

そこに禅の修行の意義が本格に甦り,修行に対する深い理解と協力が生れ,家庭そのものが人間形成の気と心につゝまれてゆくのであり,人間のほんとうのすこやかな幸せというものもそこに育まれてゆく。

家庭の行を,このようにとらえることによって一定の期間を区切った摂心会というものの真の意義もほんとうに生きてくるのである。 (了)