禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

坐禅のすすめ 第2章『坐禅の実習』 第8節 悟道の境涯 p82~89 白田貴郎

禅の修行の眼目は、見性(直指人心見性成仏)にあるが、見性というのは、布団上で虚妄の我というものを殺して、自己の本心本性を見るということである。

この本性は、宇宙を一貫する不生不滅の如是法と不二一如なるもので、従って見性の境涯というものは、人によって違ったり、場所や時代によって異ったりする筈がない。 ところで禅では、悟後の修行ということがやかましくいわれる。

 

これは一体何故であろうか? たしかに「理」という点からみると、見性は無二亦無三の唯一の境涯なのであるが、自分の得た力を日常の生活の上にも生きてはたらかすという「事」の上からみると、人の境涯に浅深・狭広の別があることは争えない。 一度、大死一番 絶後に再蘇して、真実の本心本性が甦ったとはいっても、すぐに実際に日々に出てくる千差万別の境に処して、自由自在にその本心を使うというわけにはゆかない。

況んや、自分自身の解脱のみではなく、いろいろな人達を相手にして、修行の眼目である衆生済度をなすなどということは、容易ではないのである。 普通の宗教では、入信によって神仏を信じるが、その信が其の見性にまで徹することは、極めて困難で、万が中の一にすぎないとみられるが、禅のように見性後において境涯を高め、自覚覚他覚行円満の事仏の境涯に到る修行の道程というものを設けているのは、絶無といってよい。

禅では、伝法の師家がおり、古来より伝えて来られた法財があり、悟後の修行の境涯の浅深邪正を鑑別する道が伝えられているのである。まことに世界の歴史に冠絶した人類の宝といわなければならない。

ところで悟後の修行における境涯の階程については、古来、いろいろな人によっていろいろな説き方がなされている。

曹洞宗の開祖 洞山大師)は、これを五つの位に分けて、そのおのおのの位の特徴を偶頸(げじゅ)によって表現し、『洞山五位』という法財をのこしている。また廓庵(かくあん)和尚は、修行者の心を牛に誓え道に志してから衆生済度の仏行をなすまでを十の位階に分けて『十牛図』として、これを絵ときとしている。

白隠和尚は、これを、法身・機関・言詮.難透難解.五位.十重禁.末後向上の七位に分け、それぞれに公案を配している。 この悟後の修行の境涯というものは、見性した者が脚実地の修行によって、自ら身に納得して味わってゆくもので、初心の未見性の者の到底垣のぞきのできるものではないが、ここで・禅というものを説く以上、どうしても触れざるをえないので、その概略を示しておくこととする。

 

古来 悟後の境涯を理致・機関・向上という三位に分ける扱いがあるが、ここでは、これを見性入理・見性悟道・見性了々の三とすることとする。

 

1.見性入理

先述のごとく、見性というのは、主客分離の相対的な生死の境にある自己を布団上で殺し尽して、大死一番絶後に再蘇し、天地と我と同根 万物と我と一体なる本来の面目に甦ることであるが、その面目を仏となづける。 ここで老子がいう 【物あり、混成す。天地に先立って生ず。寂たり.寥たり・独立して改めず、周行して殆からず、以て天下の母(もと)たるべし】 という一物を体得する。

この一物は、千差万別の現象が、時間の中で生滅変化してゆくなかで、生滅せず、すべてのものに己れを厳然として現じている唯一の絶対者で、これによってあらしめりれないものはない。 地球がめぐるのも、風が吹くのも、雨が降るのも、花が咲くのも悉くこれによっている。 これは、神とよばれ.仏とよばれ、道とよばれ、如とよばれるが、名ほ変っても、ものそのものは変ることはなく、天上天下唯我独尊底である。 このような見性の境涯は、我他彼比という相対の両頭を裁断して、ガ地一声に生れ出る誕生仏で、虚空を破砕し、「上 片瓦の頭に載するなく、下 寸土の脚下に踏むなし」という法身仏の悟得なのである。

この法身仏の上からみると、千差万別に山川草木禽獣虫魚としてあらわれ、善悪美醜上下左右是非曲直としてあらわれる現象界は、無差別平等の本体を現わし、一味平等となる。 山は高きを失し、川は流れをとどめ、美しい娘も醜い老婆も、皆悉く法身仏の一なるすがたとなる。

仏教では、この万物の本体たる即ち「如」を表わす仏(法身仏)を文殊菩薩であらわし、その開示する智意を大円鏡智と名づけている。 見性入理というのは、万物をあらしめる不生不滅のこの一なる「如」を悟得し、大円鏡智を得て文殊菩薩の境狸を手に入れることなのである。

 

2.見性悟道

このような見性入理の境涯を得て不生不滅の真理を悟得したといっても、すぐに現実に存在する千差万別の境に即して、その心をば自由にはたらかせる機用をもてるわけではない。 その不生不滅の本性が、一一の時と処とにおいて、その差別に即しながら、その通り(如是)にはたらき、自由自在に心をはたらかせてゆくためには、動中の世間の法に即して現ずる差別の智慧を磨くことが必要である。

差別なき平等は悪平等であり、有限に即さない無限は悪無限である。

金剛経』の中に【応無所住而生其心】という語があるが、これは、何処にも住せずして、千差万別の境に即して、千変万化しながら常に正念に住して不生不滅の如というものを現成せしめているということである。 このようなはたらきができるためには、天上天下唯我独尊底の平等の位というものに腰をおろしているわけにはゆかなくなる。

こちらが鏡のようになって、一物をも蔵するなく、限前に現われたものを正しく映しとって、それに応ずるはたらきができねばならない。 剣道にしても、茶道にしても、一つの境というものに心をとどめていたのでは、新たに出てくる境に対応することはできない。 心に糸一すじもとどめず、状況の千変万化に応じて即妙にこちらも変化し、しかもその変化の中に常に一なる如というものが持続して保持されていなければならない。

これを禅では、正念相統といい、心々不異といっている。 このような差別の境において開示される智慧を平等性智といい、それを象徴する仏を普賢菩薩とよんでいる。 悟後の修行というのは、事に即して殺活自在の力を養い、正念相続の工夫三昧をこころみるのである。 これによって.道力が養われる。

3.見性了々

以上の二つの位は、自利即ち自受用の境涯であるが、禅の修行が衆生済度を眼目とする以上、そこにとどまるわけにはゆかない。 悟りの山を下りて、十字街頭に入って.いろいろな根器の衆生のために、いろいろに身を現じて済度の方便を行じなければならない。

『観音経』に説く観世音菩薩の三十三応身とは、これを指している。

【無尽意菩薩、仏に白(もう)して貫く、世尊、観世音菩薩は如何がこの裟婆世界に遊び、如何にしてか衆生の為に説法したもう、方便の力其の事、如何。

仏 無尽意菩薩に告げたまわく善男子、もし国土に衆生ありて、まさに仏身を以って得度すべき者には、観世音菩薩仏身を現じて為に説法しまさに童男童女身を以て得度すべき者にほ即ち童男童女身を現じて為に説法し】 (三十三応身)

 

このような慈悲行の中には、悟りというものは姿を消し、宗教の核心である神聖性というものも消えてしまわねばならない。 普通の常識の宗教信仰などの、夢にだにも見ることのできない無功用の境涯である。 これを「悟了同未悟」といい、悟を糸一筋をも存せず、悟らざる以前のもとの素凡夫にかえった境涯である。

ここのところは迷悟両忘の閑古錐の境渡ともいわれる。 尖端がちびてポロボロになり、使いものにならなくなった、役立たずの古い錐の味である。 悟りに悟り、悟り了ってみて、畢発 禅の修行も無駄骨折りであったという境である。 ここは、外から垣のぞきができない、親知らず子知らずの田地である。

 

慈悲というものには、三つの等級がある。

第一の慈悲は、衆生縁の慈悲で衆生の苦悩をみて心に救いの気をおこす、ヒューマニズムである。

第二の慈悲は、法縁の慈悲で、有情非情みな幻の如しと観じ、共有の見を離れて、如幻の法門を説き、如幻の衆生を度するもので、度する者も度される者も度す法門も幻であるとする大乗の菩薩の慈悲である。

第三の慈悲は、無縁の慈悲で、月が衆水に影をうつすように、本有の性徳があらわれ、度せんとのやを起さずに、法爾自然に衆生が済度される慈悲である。 そこには「為にする」ものは勿論「如幻の想」もない。 自然そのまゝのすがたやはたらきが、そのまゝ正しく・楽しく・仲のよい世界楽土建設の機輪を転じている。

それは、正に太陽が如是にかがやき、路傍に草花が如是に咲いていると同様に、人間の如是なるすがたである。 そこに法のかけらの存するものはない。 仏の光は、すがたを消し、悟らざる以前のすがたそのまゝに還るのである。

道元禅師が、宋より帰朝したときの語に、

【我 叢林を歴ること多からず。 等閑に天童先師に見えて、当下に只眼横鼻直なることを認待して、人に瞞ぜられず。 空手にして郷に還る。一毫も仏法あることなし。 朝々日は東に出で、夜々月ほ西に沈む。 三年一閏に逢い、鶏は五更に向って鳴く】とある。 これが、見性了々の境涯である。 (了)