禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

坐禅のすすめ『おわりに』p140~34 白田貴郎

これまで禅について,いろいろの角度から述べてきたが,最後に人間形成と禅について1.正しく,2.楽しく,3.仲よくという三つの観点から話をしてみたい。

 

1.正しく

 

人間の一生は,道というものに根ざす願というものを堅持して,それを正しく転じ,後世にもそれを伝えてゆくべきものである。 人間の願には,全ての者が必ず持たねばならぬ本願と,各自一人一人の縁に結びついた別願とがある。

 

その本願とは,仏の請願である四弘誓願であり,別願とは,各自が職務や個性を通じて実現すべき具体的な願である。 このような願を確立し,それを転ずることのない人間の一生は,正しい本格の一生とはいえないであろう。四弘誓願は,自利と利他が不二であることを開示し,ほんとうの人生を味わいつつ,世界楽土を建設することを目指す願である。

   衆生無辺誓願度   煩悩無人誓願

   法門無量誓願学   仏道無上誓願

 

しかしこの願にも,ただ心に抱かれるだけで人間形成の行によって具体的に転ぜられないならば,ただ観念に堕してしまい真実の願たることはできない。

真の願は,どうしても行によって媒介されなければならない。

 

と同時に逆に,最近よくいわれるように,一生涯を家庭教育・学校教育・社会教育の3段階に分けて生涯教育とし,人間形成の一生として受けとってみても,その行が真実の願によって貫かれているものでないならば,その行は,ほんとうに正しいものとなることはできない。真の行は,願によって媒介されなければならない。

 

そしてこのような正しい願と行と結びついた人間形成の本旨を開示するのが智慧であり,見性によって開かれる道眼である。

仏教 ことに禅は,智慧の宗教であるが,禅が開示する「般若」の智慧は,慧命といわれ歴代の仏祖師がちょうど一器の水を一器に移すように滴々相承し伝えてきたものであるが,元来ことは人々が本来具有しているもので,禅宗という仏教の一宗派が独占すべき性質のものではなく,すべての人々に開かれているものである。

 

決して我田引水ではなく,どのような宗教信仰をももち,どのような政治思想をもち,どのような職業身分にあろうと,人間形成の実習が正しくあるためには,見性による智慧がその根底に現在していなければならない。

 

キリスト教の信仰をもつ者も,マルクス主義の政治行動をする者も,経営に携わる者も,経営に携わる者も,剣道を修する者も,家庭の主婦も,自動車の運転手も,例外足りうるものは何一つなし。

 

2.楽しく

禅は,徹頭徹尾 行を重んじる。どんなに悟道に徹しても,日々の篤実な坐禅の実習によって,一日一日がほんとうに生かされてゆくのではなくては,真実の禅者ではない。 だから禅では,修行の真偽が問われる。修行がほんものかどうかが重視されるのである。どんなに大いなる信仰を得,深遠な法を悟得していても,日々の行がほんものでなければ,その人はほんものではないのである。

 

禅とは,だから日々の行を人間形成の行として楽しむ。この楽しみのないところに禅はない。 楽しみというと,苦しみや悲しみに対する楽しみと受けとられがちであるが,ここでいう楽しみをは,もっと深く大きな次元の高いものである。

生涯には誰でもいろいろな苦悩や辛酸に出遭う。悲惨にもめぐりあう。それらを自分の一生を通じての人間形成の機縁として受けとめ,境涯を高めるための修行の契機とする。

 

そうすれば,その苦しみや悲しみは,人間形成の楽しみのための一里塚なのである。 禅では,一日一炷香ということがやかましくいわれる。

一炷香とは,線香一本のことである。つまり,毎日少なくとも線香一本の坐禅を行取するということである。 自分の一生は,何はともあれ,この一日である。従ってこの一日をほんとうに正しく生きなければ,一生をほんとうのものにすることはできない。

自分の一生は,この一日につづまる。 またこの一日は,人間が歴史を通じて開示しようとし,仏々祖々が伝えようとした真理の顕わになる一日である。 この尊ぶべき一日を,そのような本来のすがたにおいて荘厳し,その通りに行取せしめるものが,一日一炷香である。

 

非に新たにまた日に新たに展開する日々の人間形成をその本旨において楽しくさせるものこそ,この行でなければならない。

 

禅は,知識や信仰や技術ではなく,行であるといったが,行を通じてのみ一人一人のもち味は琢磨されてゆく。

 

一本の茶杓を例にとろう。 梅の枝でも,竹でも,茶杓がその真価を発揮して高い風格をあらわすのは,毎日毎日主人によって丁重に使われ,磨かれ,長い歳月のつみ重ねによってその持ち味が染み出てくるときである。その味は,外から人為的に加えられた飾りによってではなく,その本来の持ち味が琢磨を経て香りを発揮したものにほかならない。

人間の場合でも同様で,長い風雪に耐え辛酸を経た人間形成の行によって,人はそのもつ持ち味と香りを出してくる。それは生地から発する香りであって,単なる理念や言葉ではない。

 

このようにして転じられてゆく日々の行が,いろいろな辛苦を楽しみに変えるのである。

 

人間の生において,ほんとうの楽しさを味わしめるものこそ,正しい願行によって行じられる人間形成の行である。

 

3.仲よく

 

元来,禅の修行は,徹底した自力であり,如何なるものにも依存しないことを建前とするものとされ,お互いの和という面では欠くるところがあったといわれる。

 

たしかに道を求める修行の上において,自他に厳でなければならぬことは,一貫して堅持されねばならぬが,そのことは他に対する思い遣りや和を欠いてよいという理由にはならない。

 

また禅は,伝法を重んじ,一箇半箇の仏種草を打出することに重点をおき,世界楽土を建設するための布教の面は比較的に軽視してきたきらいがある。 更にはまた禅は,他の仏教宗派と同じように,出家僧による寺院仏教の形式に制約され,葬式や法事の儀式を自らの職とする僧侶のあり方と結びついて,生きた歴史の現実の直中における人間形成の行として受けとられていないうらみがある。

 

このような禅のもつ伝統的な外被をとり除いて,現代のための正しい人間形成の行として禅が甦るためには,「仲よく」ということを本格に行取しなければならない。 もともと人間には,その一人一人に,他には真似のできない独特のもち味というものがある。もちろん修行の打ち込み方によって境涯には深浅の別が出てくるが,如何なる学人も衆生本来仏であり,人間形成の願行を正しく転じている限り仏の子である。

 

丁度,梅には梅の,松には松の,桜には桜の,竹には竹のもち味があり,その何れが特にすぐれているわけではないように,人それぞれのもち味は,他を以って換え得ぬものであり,その力が発揮されて,はじめて楽土というものの建設ができる。 そんなにすぐれた梅も,松の持ち味をもつことはできない。

 

このように道心をおこし,人間形成の行に志している人々は,たとえどんなに境涯が低く,力が小さくとも,そのおのおのの持ち場と持ち味において,仏の願行を推進し,楽土建設の行を担っている人々である。 一人の力が如何に卓越していても,それだけでは楽土など建設しうるものではない。

東海道を堂々と進む大名も,山奥の田舎の小路を歩む人も,見える姿は違い,歩んでいる路に大小表裏の差はあっても,その道が同じ目的に向う一本の道である点で差はない。 このように国の政治にかかわる大臣も,小学校の先生も,八百屋のおっつさんも,寺の坊さんも,郵便を配達する人も,その携わる仕事は違っていても,仏の願行を転ずるという点では,変わりはないのである。 炭火というものは,どんなに大きくても,一つでは消えてしまう。

 

一人のどんな力量のある達人でも,世界楽土の建設はできない。 どんな小さな炭火も,それが一つ二つ三つと寄せ合わされると,火力を発揮してくる。いままでの僧堂に閉じこもり,伝法のみに専心する禅は,生きた歴史の現実から遊離してしまいがちである。いろいろの生産的現実で仕事をし苦しみあえいでいる人々が,その仕事を己れの世界楽土建設への仏事と受けとめることによって,禅は現実の中に生きてくるのである。

 

摂心会の厳修は,一日一炷香の行に再生の活力を与える修行であるが,そこでは多くの道心が一つの道場に集り,寝食を共にし,師学が共に研鑽する。まことに摂心会は,同氏が集るということが如何に絶大の力を発揮せしめるかを,さまざまと体認させる。

 

禅の修行は,己れをごまかさぬ厳さの要求される道であるが,現代という時代の現実の中で,世界楽土建設という大眼目を実現してゆくためには,「仲の良い」人間形成の道として,出家中心の孤立的な旧い枠を脱して,在家の各層の修行者の集り,すなわち「僧伽」(教団)の形成に進んでゆかなければならない。

(了)