禅と茶の集い

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現代社会人のための禅修行階梯 第一部(6)「自伝的自己の短所」と「自伝的自己の長所」

Ⅵ 「自伝的自己の短所」と「自伝的自己の長所」

 

以上のような「自伝的自己」を支えるシステムの中で、「現代社会人のための禅修行階梯と人間形成」という観点から見ますと、②の中から「快、喜び・笑い」を除く「不快、不安・恐怖・怒り・恨み・憎しみ・嘆きなどの情動を発現し、それと前後して自律神経症状を発現する機能」と、④「エピソード記憶を集積・上書き・保存・想起し、それによって自分の命・財産・名誉・家族(子孫を残すことを含めて)・郷土・国などを守ろうとしたり拡張・増大したり、あるいは自分達の思想や教えを保持し・強化し・拡張しようとする機能」の2つに欠点が多いので、「自伝的自己の短所」ともいうべき性質を有しているのです。

 

なお①「睡眠欲・食欲・飲水欲・排泄欲・性欲などの生理的欲求に対する反応(行動に至るまでの)」のうち、「性欲」以外は「禅修行の場」では過度でなければ許容されています。 以上の①・②・④のシステムは、共に大脳辺縁系と密接な関係にあるということが注目に値します。

 

大脳辺縁系は、生物進化史的にいえば恐竜時代から引き継いでいるのですから、①と②と④のシステムは、恐竜時代からのDNAを受け継いでいるということになります。(とくに怒り・憎しみや子孫を残すこと・縄張りを守ることなどは)

 

日本を代表する脳科学者の時実利彦先生は、大脳辺縁系について、「たくましく 生きてゆく」システムと表現されています。

一方③・⑤・⑥のシステムに関与する多くの部位は、大脳新皮質領域に存在(先述のように、一部は大脳辺縁系視床視床下部を経由したり、視床や小脳と関係していますが)しますので、地球上の生物進化史的な見方をすれば、極めて高度でかつ精緻(特に⑤のシステムはそうですが、③・⑥のシステムであってもヒトの感覚・運動・行動は他の動物に比べて極めて精緻)な機能です。 この3つのシステムは、進化の結果ですので、長所という言葉はやや使いにくいのですが、先述の「自伝的自己の短所」に対比して「自伝的自己の長所」としておきます。

時実利彦先生の言葉を借りれば、「うまく・よく 生きてゆく」システムということです。 ここで疑問がでてくるでしょう。

「自己肯定感」とか「自尊心」とか、あるいは「夫婦の情愛」とか「親子の愛情」さえも、②と④のシステムと関連が深いがゆえに、「短所」というべきものなのでしょうか?という疑問です。

私達のように現代日本に住んでいる社会人にとって、無宗教的な「日常生活の場」にいる時、あるいは「禅修行の場」から戻った時、子孫を残すための生殖行為・家族を養うために生産活動に従事・政治経済社会活動に参加(時には軍事活動にも)・科学や創造や芸術や芸能活動・さらには定年後および老後の生活の工面や遺産相続の算段などにも、②と④のシステムは必要です。  

 

更に、幼い子が亡くなった時、両親が流す涙さえも「情動」(ダマシオの 定義では)とされても、人間としては、必要不可欠なものです。  

確かに、②・④のシステムは、過大で過剰ならば弊害があるでしょうが、ほどほどの程度ならば、「短所」と言い切るのは、ちょっと酷なのではないだろうか?という疑問です。  

以上のような疑問は、社会人(普段は無宗教的な「日常生活の場」に住んでいる)でありながら禅修行の道を歩んでいる方にとっても、持って当然の疑問です。  

 

しかし、王子という地位を捨て、妻子と離別してまでも、修行の道に進まれ、諸々の衆生の安寧と平安を説かれた釈尊の跡を追体験しようとする「禅修行の場」におきましては、②・④のシステムは「短所」であるということに、いずれ気付いていくはずです。(これが後に「現代社会人のための禅修行階梯と人間形成」というテーマーに繋がる大きな問題となってきます。)

 

ここでなぜ「いずれ」という言葉が使用されたのかといいますと、釈尊が修行の道に進まれたのも、われわれが修行の道を進んで行くためにも、起爆薬としての②・④のシステムがどうしても必要であるからです。

ただし「禅修行階梯」が進んで行きますと、自ずとシステム②、さらに④を「棚上げ」にする技が身について行きます。この点につきましては、第二部以降で触れられます。