禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

現代社会人のための禅修行階梯 第一部(5)「自伝的自己」を支えるシステム②

Ⅴ 「自伝的自己」を支えるシステム③「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・体性感 覚などの感覚(エピソード記憶を想起する、意味記憶によって気付く・知覚する、などに至るまで)の機能」、と⑥「身体を動かしたり、行動する機能」における「中核自己」の特性

 

 前項の終わりの処で、「しかし③と⑥は、長じた後(特にシステム⑤の思考・内省能力が発達した後)に、意識的に「中核自己」と「自伝的自己」との部分に分離することが可能であるという特性を有しているのです。

 

そして先達方が工夫され現在までに伝えられたのは、この意識的に分離が可能という特性を利用して、③と⑥の中の「いま・ここ」のみという機能をうまく取り出し、その中の「宝物」を体得し・味わい・使いこなすための技というわけです。それを禅やマインドフルネスや各種の瞑想法で利用しているのです。」と述べました。

 

この点につきまして、もう少し追加しておきたいことがあります。

といいますのも、システム⑥の「いま・ここ」のみの機能を細かく観察しますと、瞬間瞬間の体性感覚(皮膚・腱・筋肉・関節などの感覚)が連続していることに気付かされます。つまりシステム⑥の「いま・ここ」のみの機能はシステム③(特に体性感覚)の「いま・ここ」のみの機能に帰着していくということです。(皆様は第二部で述べます「歩行の修練」を実修しますときに、そのことがわかるでしょう。)

 

というわけで、意識的に「中核自己」と「自伝的自己」との部分に分離することが可能であるという特性を吟味するのは、③の「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・体性感覚などの感覚(エピソード記憶を想起する、意味記憶によって気付く・知覚する、などに至るまで)の機能」だけでよいということになります。

 

ここでシステム③を、意識的に「中核自己」と「自伝的自己」の部分に 分離することとは、どういうことかについてみておきましょう。

 

この点につきましては、システム③を、「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・体性感覚などの感覚(エピソード記憶を想起する、意味記憶によって気付く・知覚する、などに至るまで)の機能」と定義したことで、既に答えが出ているのです。

 

それはどういうことかといいますと、感覚の領域に止まっていて、エピソード記憶を想起する、意味記憶によって気付く・知覚する、などの領域に入らないということが、「中核自己」の領域に止まっているということそのものであるからです。(この時に、ヒトの脳内でどのようなことが起こっているのかにつきましては、第一部 第四章で述べられます。)

なおこれまで述べてきました「自伝的自己」を支えるシステムとか、次項以降の「自伝的自己の短所」と「自伝的自己の長所」とか、「中核自己に備わっている宝物」という概念・用語は、「現代社会人のための禅修行階梯」を理解しやすく、そして修行を進めるための仮説として、あくまでも私個人が提案するものです。以上の概念・用語は、アントニオ・ダマシオ自身のものではないことを、ここでお断りしておきます。