禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

現代社会人のための禅修行階梯 第二部(6)「歩行の修練」

Ⅲ 「歩行の修練」

 

「中核自己に備わっている3つの宝物」を、歩行という動作を通して、 体得し・味わい・使いこなすという修練です。

 

詳しい話は実習の時にしまして簡単に説明しておきます。

会場としては、広い室内か戸外でも人通りが少なく信号もなく自転車も こない広場が望ましいです。

そのほうが陳述的記憶の貯蔵庫(意味記憶の場合は大脳皮質側頭葉、エピソード記憶の場合は大脳辺縁系の海馬及びその周辺)の扉が開くことが少なくなり、結果的に「自伝的自己」の働きが減少し、歩行に集中しやすくなります。

 

ところが、現代人は電車に乗っていても、歩いている時にも、スマホや 携帯電話を離さない人ばかりです。ですから休息中も陳述的記憶の貯蔵庫 の扉が開きぱなっし、つまり脳は常に漏電状態にあり、体性感覚に繋意す る能力が極めて劣化していますので、現代人にとっては、「歩行の修練」も 難易度の高いものになっています。特に後に述べます「両手で風を感じな がらの歩行」や「「小三鈷(股)印」に繋意しながらの歩行」が難易度が高 いのです。

 

1 各人の普段の歩行     

 

礼法・能・歌舞伎・舞踊・茶道・弓道等や軍隊・警察・消防等を経験した人を除けば、現代社会人の多くは、歩行そのものには関心を示しません。     

脚(足)は、自分の身体を運ぶための道具としかみていません。     

歩きながら、考えたりあるいはスマホを操作するのが日常です。     

そこでまず参加者全員に、それぞれの普段の歩行をやって頂きます。

そして普段の歩行において、いかに歩行そのものに注意を払っていな いかについて、ご自身の身体を通じて感じて頂きたいのですが、最初か らは到底無理ですので、その方の歩行の特徴を参加者全員で指摘し合っ て、ご当人にも記憶してもらっておきます。

 

2 踵から着地する歩行

 

歩行の最初の修練は、踵から着地する歩行です。

「案内人」が見本を示し、 参加者全員がそれを見習って、自分のものとします。

腰を伸ばし、眼はまっすぐ正面を向き、手をバランスよく動かします。

この歩行は、四足(二手二足)歩行から重力に逆らって立ち上がり、そして二足歩行ができた時のヒトの歩行の基本です。ですから理科の教科書にも登場する歩行の基本スタイルですが、農耕民族には結構難しいものです。(江戸時代末期、フランス陸軍の将校が、日本人に歩行の教練をしたときに、苦労したという逸話が残っています。)

 

参加者にこのような歩行を普段訓練している職業を尋ねますと、自衛隊員・警察官・消防団員という答えが返ってきます。

そうです。この歩行は、ヒトの歩行の中では最も力強いものです。

見た目にも力強いのですが、踵から着地する感覚を脳に伝えること、そして左右の踵が着地するときの感覚だけに繋意することによって、気付き・知覚の素材が当該連合野に到達するのを遮断し(意味記憶の場合)、あるいは想起の素材が想起する部位に到達するのを遮断(エピソード記憶の場合)することができ、結果的には「自伝的自己」の機能を「棚上げ」にすることができるようになります。

 

それゆえこの歩行は、恋人や家族等へのさまざまな思いを断ちきって戦場にでかける時、上官の命令にあれこれ考えることなく素早く反応しなければならない時、自分の身も顧みず警護・消火・救命・救助のために現場に入る時などにふさわしいという特徴を持っています。

そのため洋の東西を問わず、軍隊・警察・消防・救急等で採用されているのです。

 

とはいえ全ての人が上記のような職業に就くわけではありません。

が、この歩行は全ての人に重要な意味を持っています。

「中核自己に備わっている3つの宝物」という立場からみますと、 この歩行は、「3つの宝物」の①「断」または「断」の機能を体得し・味わい・使いこなすためのものとしましては、最適な歩行です。

 

どうぞそのような観点からこの歩行を味わい・使いこなしてみてください。  

日常生活においてこの歩行は、不安・恐怖・遷延する悲嘆などに立ち向かうときに使えます。

例えば病院で、癌と宣告されたとしましょう。

ほとんどの人は頭が即座に真っ白となり、どこをどう歩いたかも解らず、なんとか家にたどり着きます。癌に対する恐怖・余命いくばくもないことを知った恐怖は、だれも助けてはくれません。

恋人も、愛する家族も、抗不安薬も役には立ちません。

キリスト教イスラム教や他力の教えに帰依している方々(死後の世界に生まれ変わると信じていらっしゃる方々)以外は、自分で立ち向かうしかないのです。

この時役に立つ一つの方法が、この歩行です。

ですからこの歩行を修練する時には、自分が癌と宣告され余命いくばくもないという恐怖に立ち向かうという気構えで行うと、きっと身につくはずです。

これが、踵からの着地によって、「3つの宝物」の①「断」または「断」の機能を体得し・味わい・使いこなすという技法です。

 

3 靴音による「断」の歩行

 

今一つ少し難易度が上がりますが、気付き・知覚の素材が当該連合野に到達するのを遮断したり、あるいは想起の素材が想起する部位に到達するのを遮断することによって、「自伝的自己」の機能を「棚上げ」にする歩行があります。

 

これは踵からの着地による歩行の変法ともいえますし、第二部 第二章のⅠ 「聞いたら 聞いたまま」とも関連するものです。 靴などが地面と接した時の音を利用して、「3つの宝物」の①「断」または「断」の機能を体得し・味わい・使いこなすことができます。(22頁の「聞いたら 聞いたまま」の時の脳内の状態を参照)

 

これもとても有効な方法です。そしてこの音に全身心をゆだねることができれば、道元禅師の有名な言葉、「仏道をならふといふは 自己をな らふなり、自己をならふといふは 自己をわするるなり、自己をわする るといふは 万法(まんぼう)に証せらるるなり、・・・」にあります「万 法に証せらるるなり」ということも体得できるようになるでしょう。(「万 法に証せらるるなり」につきましては、いずれ検討されます。)

 

4 両手で風を感じながらの歩行

 

次は、両手で風を感じながらの歩行です。

「印契の探求」のときに体得しました「パー」(両手)によって、各指や掌で風を感じたり身体の軽やかさを感じるということを、歩行で利用するのです。 身体の中で風を最も感じ易いのは頬です。

これは忙しい現代人でも大方の人が感じられることでしょう。

しかし両手の指から掌にかけて空気の中に溶け込んでいくかのような感覚を利用してゆったりと歩くのは、スマホや携帯中毒の現代人にとっては、かなり難易度が高いものです。

普段から「自伝的自己」を「棚上げ」にする力を養なう必要があります。  

白隠禅師の句に「もの持たぬ 袂はかるし 夕涼み」というのがあります。

一日の務めが終わって家路に帰る時、試験が終わった時、重大な責務を果たし終えた時、あるいは文字通り夏の夕暮れに浴衣でぶらりと風に吹かれながら出かける時などの状況にふさわしいものです。

この歩行を折々に試みることによって、「3つの宝物」の②「風の感覚・身体が感じる軽やかさ・・・重荷からの解放感・楽しさ」を体得し・味わい・使いこなすことができるようになっていきます。

 

5 「小三鈷(股)印」に繋意しながらの歩行

 

「小三鈷(股)印」に繋意しながらの歩行です。  

この歩行を折々に試みることによって、「3つの宝物」の③A「身体が 感じる窮屈さ・身体が感じる弱さ・・・愁い・悲しみ」を体得し・味わ い・使いこなすことができるようになっていきます。 ここで皆様に質問があります。

 

この歩行を日常生活で使う場合、どのような場面がふさわしいでしょうか。

ふさわしい場面で、この歩行を試してみてください。

 

6 踵から着地する歩行・両手で風を感じながらの歩行・「小三鈷(股) 印」に繋意しながらの歩行を、適宜切り替える  

 

歩行の修練の最後は、「歩行の修練」の2・4・5の3通りを、歩行中に適宜切り替えるというものです。  

 

往きは2の方法、帰りは4又は5の方法などなどで、「3つの宝物」の①「断」または「断」の機能、②「風の感覚・身体が感じる軽やかさ・・・重荷からの解放感・楽しさ」、③A「身体が感じる窮屈さ・身体が感じる弱さ・・・愁い・悲しみ」に適宜切り替えることを体得し・味わい・使いこなしていきます。  

 

このことによって、ある時は「断」または「断」の機能だけ、ある 時は「風の感覚・身体が感じる軽やかさ・・・重荷からの解放感・楽し さ」だけ、ある時は「身体が感じる窮屈さ・身体が感じる弱さ・・・愁 い・悲しみ」だけという具合に、時間の長短があっても、体性感覚の繋意の部位が変わることに伴って、「3つの宝物」の一つ一つが後を引くことなく、コロコロと転じていくことを体得し・味わい・使いこなしていきます。  

厳密にいいますと、2と4と5との歩行が切り替わる時、あたかも自動車のギアが切り替わるように、瞬間的には手順などの「自伝的自己の長所」が介入してきます。

しかし「自伝的自己の長所」の介入をできるだけ短時間にすることが、コロコロと転じていくための秘訣です。

 

たとえば、お茶のお点前のとき、達人はその手順に捉われることなく、 体性感覚などへの繋意が連続し、結果的にスムースなお点前(「気続立、 きぞくだて」)になっているようなものです。

 

以上歩行という極めて限定された範囲の話ではありますが、「中核自己に備わっている3つの宝物」の一つ一つを体得し・味わい・使いこ なす技に加えて、状況によって「3つの宝物」がコロコロと転じてい く技をも身に付いてくることを、皆様自身が自分の身体を通して感じ られることでしょう。  

 

なお、「自伝的自己の長所」の介入をできるだけ短時間にしながら、「3つの宝物」の一つ一つをコロコロと転じていくことが、禅の修行では如何に大切なことであるかにつきましては、改めて第四部でお話致します。