第二章 聴覚における「中核自己に備わっている3つの宝物」を体得し・味わい・使いこなすための技法
第一章のⅡ(第一部(2))で述べましたように、アントニオ・ダマシオ自身は 聴覚と「感情」との関係性については明言していません。
しかし私は、聴覚は体性感覚と同様に胎生期に既に働いていること、胎生期から誕生直後までは神経細胞のネットワークが未発達のため「いま・ ここ」のみの自己(「中核自己」)しか存在していないこと、更に多くの先達方が工夫されてきたものを現代人向けにアレンジする作業を行なう中から、聴覚領域にも「中核自己に備わっている3つの宝物」が存在していると、考えるようになりました。(最近の脳科学の知見では、島皮質は前部と後部の役割が異なっていること、前部は大脳辺縁系・嗅覚・味覚などと密接に関係していること、後部は聴覚・体性感覚などと密接に関係していることが解ってきました。)
但し体性感覚と聴覚との違いを考慮する必要がありますので、第一部(13)で聴覚における「中核自己に備わっている3つの宝物」の内容として述べましたことを再掲しておきましょう。
①「断」または「断」の機能
②「音の波の感覚・外耳道の皮膚および鼓膜が感じる軽やかさ・・・重 荷からの解放感・楽しさ」
③A「両目頭に音を聞く・身体が感じる弱さ・・・愁い・悲しみ」
本章では、上記の「3つの宝物」を体得し・味わい・使いこなすための 技法について述べてみます。
Ⅰ 「聞いたら 聞いたまま」
「聞いたら 聞いたまま」ということ、つまり音を利用して「断」または「断」の機能を体得し・味わい・使いこなすということです。
この点につきましては、第一部 第四章のⅡ(第一部(15))で、この時の脳内で起こっていることを説明しました。 エアコンの音とか電車のモーター音等のように、ある一定時間持続する 音に集中するだけでよいのです。これはどなたにでもできるでしょう。
Ⅱ ディスコティックな音楽や太鼓の音を外耳道の皮膚で聞く ディスコ等でかける音楽(最近の音楽ではマドンナのHung upがよいで しょう。マドンナのこの曲は、アバのGimme!Gimme!Gimme!の伴奏を使っていますが、テンポも少し早くなって、よりディスコティックな曲になっています。)を外耳道の皮膚で聞くことによって、身体が自然と軽やかになり、動きだし、楽しくなってくるのが感じられます。
まず外耳道の皮膚という限局された部位で、音の波との同調を感じてみ てください。そしてその波が鼓膜・内耳・首・頭・肩・上半身・下半身へ と広がって行くのを感じていきます。この時大事なのは、(視覚的)イメー ジをできるだけ排除することです。(ヒトは生後知らず知らずに、音や音楽 に対してイメージを働かせて聞くようになっているのです。それもそのは ずです。生物進化史的にいえば、視覚・聴覚・嗅覚などの遠感覚器官は、 危険や獲物や伴侶を素早く察知するために、進化してきたのです。そのた め遠感覚からの情報は、お互いに連携が密になるように進化をし、かつヒトの生後においても、その連携が強化されてきたのです。)
以上のようなリズミカルな音楽(音)を、イメージを働かせないで、只々 身体の反応によって、「音の波の感覚・外耳道の皮膚および鼓膜が感じる軽 やかさ・・・重荷からの解放感・楽しさ」を味わっていくのです。
このような音楽(音)は、いわゆるノリが良く、そのために厳しい現実 の世界から逃避して刹那的な楽しみを求める若い人達によって好まれます。
若い人達は、「中核自己に備わっている3つの宝物」の②が聴覚領域にも存在しているなどとの七面倒臭いことには関心はありません。
只々感覚だけ で「楽しさ」(たとえ刹那的であろうと)を味わっているのです。
しかし この技は、若い人だけに使わせるのは勿体ない話です。
また太鼓のような単純でリズミックな楽器の持つ魅力は、風土・慣習・ 民族(部族)・言語・文化・宗教(宗派)・老若男女に関わらず、ヒトならばどなたでも感じられるものです。
イメージを働かせないで、只々音の波と身体が同調することによって、 聴覚領域に備わっている「3つの宝物」の②「音の波の感覚・外耳道の皮膚および鼓膜が感じる軽やかさ・・・重荷からの解放感・楽しさ」が、以上のような修練によって、体得し・味わい・使いこなすことができるということです。
Ⅲ 「目に聞く」
次の修練は、汽笛や霧笛の音、雨の道を車が通っていく音、遠くのお寺からの鐘の音などを両目頭に聞くというものです。
両目頭に聞くためには、自然音かそれに近い音が良いのですが、クラシック音楽にも少ないのですが存在します。私がこれまで聞いたものの中でという限定付きですが、ベートベン作曲The triple Concerto in C Major,OP.56の第二楽章largoのところがもっともふさわしいと思います。
Anne-Sophie Mutter, Daniel Barenboim, Yo-Yo Ma – Beethoven: Triple Concerto in C Major, Op. 56 No. 2
短調でしかも速度標語で最も遅いとされるlargoですので目頭に聞くのにふさわしいものです。
皆様の中で他にふさわしい曲を見つけられたら、ぜひお知らせください。
両目頭に音を聞くということは、「日常生活の場」ではほとんど経験さ れたことはないでしょうから、その重要性に気付くことはありません。
しかし禅修行の階梯ではとても重要な修練です。
宗峰妙超禅師(大灯国師、1283~1338年)の御歌に「耳に見て 目に聞くならば疑はじ おのずからなる軒の玉水」の中の「目に聞く」と いうことを、以上の技法で追体験することができます。そしてそのことに よって、われわれ凡人が凡人のままで、「観 世音」菩薩の境涯を体得し・ 味わうことができるのです。(「世の中の音を、只々目に聞いている」とい うのが、「観 世音」という意味です。なお『妙法蓮華経観世音菩薩普門品 第二十五』に述べられています三十三応身は、「相即相入」という行為面を 中心とした「観世音菩薩」の境涯を示したもので、「世の中の音を、只々目 に聞いている」という静止の状態とは異なるレベルの話ということになり ます。)
(「耳に見て」につきましては、第二部 第四章「視覚の修練」で説 明されます。)
上記のような修練によって、聴覚領域に備わっている「3つの宝物」の ③A「両目頭に音を聞く・身体が感じる弱さ・・・愁い・悲しみ」を体得し・ 味わい・使いこなすことができるようになるのです。
ところでさきほど、両目頭に聞くのにふさわしいクラッシックとしてベ ートベンの曲を取り上げましたが、この曲で「両目頭に音を聞く・身体が感じる弱さ・・・愁い・悲しみ」を体得し・味わい・使いこなすことがで きるようになりましたら、もう少し難易度の高い曲に挑戦してみてください。
メンデルスゾーンの交響曲第四 イタリアの第二楽章Andante con moto のところです。
これはベートベンのlargoより速度がやや早くなっていま すので、両目頭に聞くのにはやや困難でしょうが、試みてください。
そしてこの曲を両目頭に聞けて、「身体が感じる弱さ・・・愁い・悲しみ」を体 得し・味わい・使いこなすことができるようになりましたら、今度は同じ 第二楽章を外耳道の皮膚で聞くことも試みてください。
いずれも(視覚的) イメージは排除してください。
この曲は同じところであっても、繋意の部位によって、時には③A「両目頭に音を聞く・身体が感じる弱さ・・・愁い・悲しみ」を、時には②「音 の波の感覚・外耳道の皮膚および鼓膜が感じる軽やかさ・・・重荷からの 解放感・楽しさ」を味わうことができるのです。
曲の途中でも、繋意の部位を変えてみて、それによって、②と③Aが交互に味わえられるかを確かめてみてください。
音楽評論家の志鳥栄八郎氏は、『世界の名曲とレコード』という本の中で、 「第2楽章は、俗に「巡礼の行進」といわれている。ゆったりとした足ど りと哀調を帯びた表情が巡礼の行進を想像させるからであろうが、わたくしはむしろ、官能的なイタリアの夜の気分を感じる。とにかく、ここはたいへんすばらしい楽章だ。」と書いていらっしゃいますように、この楽章は「愁い・悲しみ」と「重荷からの解放感・楽しさ」との二面性を持っているのでしょう。
ただし志鳥氏や音楽ファンでは、明らかに(視覚的)イメージを働かせ て聞いている、つまり「情動」が働いていますので、聞き終わっても余韻が残ります。
一方皆様には、繋意の部位が瞬時に変わったとたんにそれに応じた「感情」が出現することを、そして「感情」の特性である「後を引かない」ということを体得し・味わえられたことでしょう。(ここにイメージが関与する聴き方とイメージが関与せずに身体のある部分に繋意しながらの聴き方との微妙な違いがあるということです。)