Ⅱ 感覚の領域に止まっていて気付き・知覚、想起などの領域に入らないという場合
まず意味記憶の場合をみてみましょう。
「嗅いだら 嗅いだまま、味わったら 味わったまま」の時の の状態を見てみましょう。
大脳皮質側頭葉より、気付き・知覚の素材が送出される。(意味記憶の場合)
上の図式で見ますように、嗅覚や味覚の感覚情報が当該感覚野に止まっ ていて動かないことによって、トリガ-(引き金)が発生しません。
そのため、意味記憶の貯蔵庫の扉が閉じたままになって、気付き・知覚という現象が起こらないのです。
そして同様なことが、聴覚・体性感覚・視覚にも起こっているのです。
煩雑になるかもしれませんが、聴覚と体性感覚における場合もみておきましょう。(視覚につきましては、同様なことが起こっているのですが、先述のとおり第二部で述べられます。)
「聞いたら 聞いたまま」の時の脳内の状態を見てみましょう。
「触ったら 触ったまま」の時の脳内の状態を見てみましょう。
次にエピソード記憶の場合をみてみましょう。
以上見ましたように、「嗅いだら 嗅いだまま、味わったら 味わったまま、聞いたら 聞いたまま、触ったら 触ったまま」とか「二念を継がず」ということは、感覚情報を感覚の領域に止めて動かさないということであり、気付き・知覚(意味記憶の場合)、想起(エピソード記憶の場合)の領域に入らないということを修練しているのです。
このことから「二念を継がず」ということの中身が明確になってきます。
つまり「二念を継がず」ということは、「一念に止まりなさい」ということですが、その中身は「感覚の領域に止まって、気付き・知覚、想起の領域に入らない」ということなのです。
ですから「一念」と「二念(三念・四念・・・)」とで同じ「念」が使われていますが、「一念」と「二念(三念・四念・・・)」とでは違うレベルのものだということです。
つまり一方は感覚の領域に止まっているという「念」で、もう一方は気付き・知覚、想起以降の領域に入っている「念」であることに注意する必要があります。
さらに注意すべきことがあります。
感覚の領域から気付き・知覚、あるいは想起の領域に入った処までを「一念」と捉える方がいらっしゃいますが(例えば「梅の香りだ」とか「柿の味だ」と気付き・知覚するとか、外食中に母親の味を思い出す処までを)、私の立場からいえば、これは「二念」ということになります。(梅にしても柿にしてもその用語・概念は、日本の風土や日本語によって「汚染」されていますし、母親の味の記憶はエピソード記憶の貯蔵庫に集積してきたものです。)
以上のように、「一念」と「二念」とを明確に定義しておきませんと、「正念」とか「よくととのえし 己」(『法句経』)の中身が見えてこないのです。
今一つ強調したいことがあります。 「感覚の領域に止まる」ということは、ダマシオのいう「中核自己」(「いま ここ」のみの機能)に止まっているということです。
そして「気付き・知覚、想起の領域に入らない」ということは、「自伝的自己」の領域に入らないということなのです。
つまり「感覚の領域に止まる」ことによって、「自伝的自己」を「棚上げ」にすることを修練しているのです。
以上述べましたように「見たら 見たまま、聞いたら 聞いたまま」とか「二念を継がず」ということによって、「中核自己に備わっている3つの宝物」の①「断」または「断」の機能を体得し・味わい・使いこなしているということなのです。
ところで禅の先達方が長年工夫されてこられましたのは、「見たら 見たまま、聞いたら 聞いたまま」とか「二念を継がず」ということが、①「断」または「断」の機能を体得し・味わい・使いこなすというだけではないということです。
先達方が工夫されてこられました聴覚と体性感覚領域における「二念を継がず」という修練(例えば大灯国師のいわれる「目に聞く」や道元禅師のいわれる「心を左掌に安んずる」坐禅など)は、ダマシオのいう「感情」、つまり私のいう「中核自己に備わっている3つの宝物」の②「風の感覚(音の波の感覚)・身体(外耳道の皮膚および鼓膜)が感じる軽やかさ・・・重荷からの解放感・楽しさ」、③A「身体が感じる窮屈さ(両目頭に音を聞く)・身体が感じる弱さ・・・愁い・悲しみ」、③B身体が感じるゆとり・身体が感じる穏やかさ・・・優しさ・思いやり」を体得し・味わい・使いこなすことに繋がるのです。(ただし視覚領域における「二念を継がず」という修練つまり大灯国師のいわれる「耳に見る」という修練は、「自伝的自己」の機能が働きだす前の視覚の働き(「観の目」と「平行視 第三・平行視 第四・平行視 第五」)を体得し・味わい・使いこなすことに繋がるのですが、これらにつきましては、第二部で述べられます。)