禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

現代社会人のための禅修行階梯 第一部(7)禅仏教の特徴

第二章 禅仏教の特徴  

Ⅰ 禅仏教の特徴

禅仏教は、他の宗教・宗派が「自伝的自己」に重点を移しているのに対して、まず「いま・ここ」のみの自己を究明すること(「二念を継がず」・「見たら見たまま 聞いたら聞いたまま」とか「思い出すよじゃ惚れよが薄い 思い出さずに忘れずに」や「耳に見て、眼に聞く」など)、さらには「酔い をにくんで酒を勧める」や「未だ船舷を跨がざるに、三十棒与うるに好 し」や「無縁の慈悲」を体得し・味わい・使いこなす技法を確立してきま した。

「いま・ここ」のみの自己を、ダマシオは「中核自己」といっています。   

彼の「中核自己」と「自伝的自己」との区別や「感情」と「情動」との区別は、禅修行の意味や禅修行の階梯を考えるのにとても役に立つ概念です。

道元禅師は『正法眼蔵』の『現成公案』の中で、「仏道をならふといふは自己をならふなり、自己をならふといふは 自己をわするるなり、自己を わするるといふは万法(まんぼう)に証せらるるなり、万法に証せらる るといふは 自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」とい われています。

 

このうちの「自己をならふ」を「「中核自己」をならふ」、そして「自己をわするる」を「「自伝的自己」をわするる」と言い換えますと、道元禅師 の言葉の真意がよく解るでしょう。(「「中核自己」をならふ」と「「自伝的 自己」をわするる」につきましては第三部 第四章のⅧを、「万法に証せら るるなり」につきましては、第三部以降を参照してください。なお「自 己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」につきましては、第 五部「禅修行の場」における修行階梯の第三期でお話致します。)

 

最近上座部仏教とかマインドフルネスなどの瞑想法が注目されています。   

それらの指導者の方々の中で、日常生活での自己を自我とかエゴといい(ここはこれでよいのですが)、これは「仮の自己」であり、瞑想法で究明するのが「真の自己」であると、いうようなことを述べられる人がいらっしゃいます。

しかしここでいう「仮の自己」の働きがなければ、「真の自己」を究明し ようとすることもできないのです。

さらに地球上の生物史の中で、ヒトの 脳が進化してきた過程を考えれば、自我(エゴ)も瞑想法で究明されるべ き「自己」も、共に「真の自己」の一側面であるという考え方のほうが、 より適切な言い方でしょう。

「真の自己」を体得し・味わい・使いこなすことができたならば、「真の自己」というガチッとしたものはなく、「習うべき自己=中核自己」も一 時「忘れるべき自己=自伝的自己」も共に、機能(働き)にすぎないこと が納得されるでしょう。

そういう点からみますと、ダマシオの「中核自己」と「自伝的自己」という用語・概念は、どちらかが優位というニュアンスが少なく、共に「機 能」であるという意味合いを持っていますので、禅修行の意味を考えると きに、有用であるという訳です。