禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

現代社会人のための禅修行階梯 第一部(8)「日常生活の場」と「禅修行の場」

Ⅱ 「日常生活の場」(その他の種々な背景の社会)と「禅修行の場」  

ここで再び図1・2を見てください。  

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「日常生活の場」と、その他の種々な背景の社会と、「禅修行の場」とは、 地続きではなくて、それぞれ海によって隔たれています。

「日常生活の場」(その他の社会)から「禅修行の場」に行く時には、それぞれの「ゲート」から「地下トンネル」を通過して、「禅修行の場」の「ゲート」に至るのです。

 

「日常生活の場」を含めて種々な背景による社会では、「自伝的自己」にほとんどの注目が集まっています。そしてそれぞれの社会においては、構成員が「自伝的自己」の競い合いという集団幻想に巻き込まれているため、「自伝的自己」による要求が加速度的に増大しています。(「自伝的自己」を支えるシステム④は増々強化・拡張・増大し、システム⑤に要求される知識量は加速度的に増加しています。)

そして各国は自然破壊・気候変動や格差拡大などの問題も構わずに、政治力・経済力・軍事力などを競い合っています。

それに加えて構成員の人口も多いので、果てしなく高さを誇る大陸として示されています。

 

それに対して「禅修行の場」では、システム④についていえば最終的には「棚上げ」する技を獲得すること、システム⑤についていえば、仏教学者のような特別な方を除けば、「境涯」の進展のためのあるいは講話・法話のための最低限必要な仏教知識(慣習・規則・儀式・さらには禅仏教に関する知識・用語・教義・法理・公案の宗旨・著語のための知識など)の量は、「日常生活の場」に比べてはるかに少ないのです。その上構成員の数も少ないので、小さな島に譬えられるのです。  

なお「日常生活の場」(その他の社会)の「ゲート」は、海面の高さに位置しています。といいますのも、そこで生活しているほとんどの人は、地下部分では、「自伝的自己」が働き出す以前の感覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・体性感覚)が働いていること、そしてそれが「中核自己」の領域に存在しているがために、全てのヒトに備わっている「宝物」が眠っていることに、全く無関心のまま生涯を終えるのです。  

 

それに対して、「禅修行の場」の「ゲート」は、島の頂上からみて八合目に位置しています。といいますのも「禅修行の場」では、「自伝的自己」が働き出す以前の感覚(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・体性感覚)の中の「中核自己に備わっている宝物」を体得し・味わい・使いこなすことに、とても大きな価値があると捉えていますので、島の八合目に「ゲート」が存在する一つの理由です。