禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

お寺の世襲制についての一考

ここ数年,自分の中でもお寺や僧侶観が違って来ておりこのボンヤリとした感覚をどう表現したらいいのか迷いながらいました。

一方で,早くこの思いを伝える言葉が見つかったらという気持ちも強くありました。

 

かなり勿体ぶった書き始めとなりましたが,5年前から坐禅をしたり,禅宗に興味を持ち始めたときの私がお寺や僧侶に対する感覚は世間一般とほぼ同じだったように思います。

歴史的や観光資源としての価値はあるとしても,近代化の中で多くが時代遅れとなり葬式仏教と揶揄されるように「お寺」は僧侶の職場であり,「僧侶」は世襲制のひとつの職業という感がありました。

坐禅をするにあたって,お寺ではなく一般社会人の坐禅道場の門を叩いたのも「宗教≒怖いもの」というだけではなく上記のような認識があったのでしょう。

 

しかし3年前に円覚寺居士林の坐禅会に参加してから認識は徐々に変化していきます。具体的に言うと横田管長さま,内田一道和尚さんなど願心を持って自ら仏道に入られた僧侶の中には信頼できる人がいるんだと気づかされ,一部認識を新たにしたという感じです。

しかしそうした時でも所謂お寺の子として育った僧侶は親の跡取りとしていやいや僧侶になっただけだと決めつけ,生意気にも宗教家としては一段も二段も低い評価をしていました。

 

でもそれもここ1~2年でまた違ってきているんです。

このブログをお読みいただいている方はすでにお分かりかも知れませんが,「なんて分かりやすい本だ,誰が描いたんだろ?」「直接会って話が聞きたい」と感じる僧侶の多くが世襲制でお寺を継がれた方だと知って自分で??とわからなくなってきておりました。

 

そうした中,ネルケ無法さんのYoutobe動画「学道用心集講義」を拝聴していて,その謎が解けました。講義の中で,「仏教修行は自分のためではない」についての解説をなさるときネルケさんは

「お寺の長男として生まれた人は初めから跡継ぎになることが,皆から期待されて仮に自分が他の職業に就きたいという夢があったとしてもその気持を抑えて僧侶になる親孝行な人たちが多い」

「日本人の僧侶になる人のほとんどが自分のためではなく家のため,檀家のため,お寺のためと思っており,自分のために出家する人は少ない」

とお話されています。

 


学道用心集講義「有所得の心を用つて佛法を修すべからざる事」、2017年10月20日

 

なるほど,「目からウロコ」とはまさしくこういうことですね。

この気づきの前後に宝樹院の坐禅会に通い始めました。

室町時代から個人主義全盛の現代まで667年に渡り,41代も世襲し法脈をつなぐのは並大抵のこととは思えません。

世間を広くするためにも大学は好きな勉強をして来いと背を押された泰裕ご住職も素晴らしければ,電子工学を学んでいながら卒業すると迷いなく円覚寺僧堂で修行を積まれた泰惇和尚さんにも驚かされます。(Ym)

 

  ブログランキング・にほんブログ村へ