禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

坐禅和讃online講義メモ ②

<2020.8.9 講義メモ>

衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ

 

私たちは近くにある幸せを感じられず遠くに求めてしまいがち。

どうしても比べてしまう 友達と周りの人と比べて,その距離によって苦しみや悩みを倍増させてしまう。

過去や未来とも比べてしまい,そ時間の距離よって苦しみ,これはとても儚いことだと白隠禅師はおしゃられています。

これはよく山田無文老師が譬えで使われている話ですけど・・・

 

尽日春を尋ねて 春を見ず

芒鞋踏み遍うす隴頭の雲

帰来却って梅花の下を過ぐれば

春は枝頭に在って己に十分

 

梅の花が春ではないが,梅の花が咲いておる所に間違いなく春があるように,坐禅が仏ではなく,その姿の中に間違いなく仏が見いだせるのです。(山田無文老師)

 

春を尋ねるという漢詩です。

草鞋が擦り切れるほど山道を探し回るが春が見つからず家に帰ってみると軒先にあった梅をみつけたという詩です。

春と言うものはどこかにあるものではなく自分の心が感じるものだ,幸せも自分の心の中に,自分の物事のとらえ方によって幸せと感じることができる。

私たちはついつい春を遠くに求めてしまいがちだが,自分の心の持ち方を変えるだけで,自分の日常の中に自分の幸せを見いだせる その手段として自分の心としっかりと向き合うことができる坐禅が有効なのだと思います。

 

譬えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり

 

私達は幸せの中にいて幸せに気がつかない。

この一文は法華経に影響されています。

16歳の時の白隠禅師が沼津の大聖寺法華経の勉強に明け暮れましが「たとえ話ばかりで大いに期待が外れて憤りする感じた」とされている逸話もあります。

後年にはその重要性がわかり坐禅和讃にも盛り込まれています。

 

ではなぜ経中の王とされ深い真理を表していると言われる法華経は例え話ばかりなのでしょうか?

「真理」というものはどうしても言葉では言い尽くせないものだからこそ,お釈迦さまもいくつものたとえ話を残されたのではないでしょうか。

一人でも多くの心を溶かしたいという白隠禅師の心が44句ものおおくの言句につながっていると思います。

 

なにも明確な答えを指し示すことだけがその人のためになるのではなく,自分自身が答えを探していくそのプロセスや力こそが大切だと思います。

その答えを見つけ出せるようになれば,自分の氷を溶かして水にしていくことに繋がると思います。

 

坐禅やお経の中にだけでなく,映画,小説,ドラマや虫の音,夏の暑さなどにも真理があり,それに気づけることが生きるヒントに繋がっていくのだと思います。

問いに問いで返す禅のやり方にまどろこしさを感じる方もいらっしゃるでしょうが,その問いを向かい合って自分の力で溶かしていくことが白隠禅師が伝えたかった事だと思います。