禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

坐禅和讃online講義メモ ①

禅と茶の集いでもよく話題に上がる白隠禅師,中でも坐禅和讃は坐禅会でも定番となっております。

折しも龍雲寺の細川和尚さまが8月よりオンライン坐禅会の中で,数句づつご講義いただいておりとても分かりやすい講義であります。

しかし忘れっぽい自分でして,講義を受けた後は感動しそうだ!そうだ!と合点をしてもしばらくすると???となります。自身の勉強のためにと動画を見ながら書き起こしたメモ書きではありますが,龍雲寺チャンネルの宣伝の一助にでもなれば細川和尚さまへの恩返しとなろうとアップロードしてみます。

 

すでに10月末までに「忝くもこの法を 一たび耳にふるる時 讃歎随喜する人は 福を得うる事限りなし」という句までご講義が進んでおりますが,味わいながらマイペースで書き起こし,掲載させていただこうと思いますのでよろしくお願いいたします。

 

<2020.8.2 講義メモ>

白隠禅師とは 江戸時代後期に活躍された禅僧

清水や沼津で活躍され,今から250年前に亡くなられた

また健康という言葉を始めて使いだした方としても知られている

 それまで「健剛」だったが,身心のすこやかさということで「健康」とされた

和讃と言うは日本語で書かれた賛歌で,極めて平易に書かれ内容は「坐禅の重要性」を丁寧に説かれており,44句,七五調の謡曲のリズムでできている

日本に禅が伝来して550年が経ち,禅が衰退していた時期に,白隠禅師が大衆に向けて日本独自の言葉での説法が始まったのが「白隠禅師 坐禅和讃」

 

衆生本来仏なり

衆生とは迷える私たちで日々,ストレスを抱え,過去に苦しみ,未来に悩む姿です。 仏とは私は「幸せ」とお話させていただいております。

私たちは必ず仏になれる可能性をもって生まれてきていると言えます。

「一切衆生悉有仏性」と言われるよう生きとし生けるものは,すべて仏性(仏のこころ・幸せの心)をもっています。

 

水と氷のごとくにて

自由自在に動けて,あらゆるものに施せる仏を「水」とし, 頑なになって動きが取れず,触れるものを傷つけてしまう私たちを「氷」に例えられています。

『中峰広録』に「迷妄の寒氷,而も能く復た其れ仏性の水なり」とあります。

また「水は方円の器に従う」とも言い,「氷」を溶かせば,どんな器にも水を満たしめることができます。

 

水を離れて氷なく

「大疑の下に大悟あり」と書かせていただきました。

氷は次第に溶けて水の量がまし,氷は水に浮いて動き出し,氷のままで少しも邪魔にならない」と山田無文老師は例えられています。

決して氷を油にするわけではなく,氷を溶かして水にするだけのことです。悩みが大きくてもしっかりと向き合って,坐禅そして一滴でも二滴でも水にかえていくことが大切だと言えます。

私たちはどうしてもストレスや悩みをすべて解消亡くしたいと思いますが,ひとつ残らず溶かしていこうではなく,氷が少しづつ水にかえていって,水が増えて氷が浮く状態,氷があっても自分の幸せの邪魔にならない状態になっていくと思います。

 

衆生の外に仏なし

迷える私がたちがあってこそ,幸せがある。

だから悩みや迷いを嫌がるのではなく,悩みや迷いをしっかりと向き合い,受け止めていくことが大切です。

親鸞聖人は「火は,木を離れて存在しない。その離れては存在しないことによって気が火になってゆく。」 幸せは悩みを離れて存在しないと教えて下さっています。