禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「禅と茶の集い」だより(7)  「○」とは?

先週は、「禅と茶の集い」の忘年会だったのでブログはお休みさせてもらいました。
 
今日2013年12月20日(金)は、第3週なので6時からコミュニティセンターの5階和室で例会が開催されました。
忘年会の効果でしょうか、先週久しぶりに忘年会に参加したので例会にも来てくれた人がいました。
うれしいことです。
外の冷たい雨のせいか、常連の人が2~3人来なかったので、参加者は7名でした。
 
まずは、いつもの通り読書会からです。
齋藤孝著の「こんなに面白かったニッポンの伝統芸能」の続きを輪読しました。
先週からテーマは「能」です。
今日読んだところで印象深かったところを少し引用します。
 
「能の学習様式は、身体を通じての真似る・盗むが基本となる。
先生も言語を使ったり細かく教えたりするわけではなく、手本を見せるだけだ。
これはやはり能が身体文化だからである」
 
前回は、「本を読んで分かったつもりになるのが危険だ」というところを紹介しましたが、体で覚えることがいかに大切であるかということが良く分かります。
 
今は情報化社会で物事を知的に理解することが多く、ともすると身体感覚が忘れられて頭でっかちになりかねないのではないかと少し懸念されます。
 
禅やお茶の実習でも、多少時間がかかっても体が覚えるまでやり続けることが大切なのではないでしょうか。
同じ様に坐っていても、5年10年と続けていると違った味わいがあります。
 
 
次はお茶の時間です。今日は鶴岡さんのお点前でした。
 
掛け軸は、「○」でした。(後で触れます)
 
お茶は、一保堂の「蓬莱の昔」。
濃い目のお茶で大変おいしくいただきました。

お菓子は、米谷の「雪うさぎ」。
雪とうさぎを連想させる真っ白な体に赤い目が印象的でした。
 
 
さて、掛け軸の話ですが、「○」=「円相(えんそう)」は茶掛けとして最も愛用されるものの一つです。
 
これを揮毫していただいた、如々庵老師(*)の一行物(淡交社)には次のようにあります。
 
「円相というものは、本来言語道断な悟りの当体を説明注釈にわたらず表現しようとの肚(はら)から書かれたものであるから、
それを説明することは、円相の書かれる趣旨に反し、これを冒涜する所行でさえある。」

「禅の修行というものは畢竟(ひっきょう)するに、坐禅の行(ぎょう)によって悟りをひらき、さらに悟後(ごご)の修行を継続してその悟りを深め、ついに悟りと自己といつも行影相伴う境涯まで到達することである。
ところでいったい何を悟るのか、悟りの当体は何者かというと、それは禅定三昧の行によって体得し、冷暖自知するほかはない絶対なもので、本来、何とも説明のしようもなく、名づけようもないものである。」
 
「悟りの当体の仏性が真空無相でかつ円満浄明である点に着目して、その仏性をグルグルッと円形をもって形象化したもの、それが禅者のいわゆる円相なのである。」
 
本文はもっと長いので、この部分の引用が的確かどうか分かりませんが、要するに自分が坐禅をして体得するしかないということです。
かえって、混乱させてしまいましたか?
 
 
これで少し興味が湧いた方は、ぜひとも「禅と茶の集い」や房総坐禅道場に来て、
ご自分で坐禅(座禅)をしてみてください。
 
義存