禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「禅と茶の集い」だより(14) 直心是道場

今日(2014年2月14日)は、第2週なので2炷香(45分×2回)の静座の予定でした。 
ところが外は先週末に続いての雪。
 
かなり強く降っていて、これでは誰も来られないかもしれないと思いながら、いつもは歩く道を電車とモノレールを乗り継ぎコミュニティセンターへ向かいました。
 
人影もまばらで、これは一人で座るのかなあと思って和室の鍵を開けているところへ、長靴を履いた登坂会長がやってきました。
自家用車は使えないのでバスで来たそうです。
 
結局、今日は二人だけでした。
この雪ではいたし方ありません。
帰りの交通が心配だったので残念ながら1炷香で帰りました。 
 
ここからは個人的に思ったことなのですが、夏は観測史上初めての猛暑。
冬は何十年ぶりの大雪と、異常とも思える気候が続いています。
これは地球が何らかのサインを発しているのではないか?
 
地球の命は私達の命。 
人類も他の動物や植物と同じその一構成員として生きているわけですが、私達は、地球の環境を維持し次の世代に美しい地球を残していかなければなりません。
 
そのためには何ができるのか、何をしなければならないのか、自分自身の問題として考えていかなければならないと思います。 
 
話は禅に戻って、先週のお茶の時に掛けた掛け軸、直心是道場(じきしんこれどうじょう)の説明について、禅語の茶掛 一行物(芳賀幸四郎(*)著 淡交社)から抜粋します。少し難しい言葉も出てきますがご一読ください。
 

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「直心」とは清く正しい心のことである。
一切の煩悩妄想を離れ、小ざかしい分別や執着を絶した純一無雑な心、
我見・我執の本である我、いわば虚妄の我(われ)から醒めて、真実の我に立ちかえった時の心のことである。
また、「道場」とは普通には修業を目的として建てられた建物のことと解されているが、本来は道を修行する場所という意味であり、「歩々是れ道場」という語もあるように、必ずしも建物を必要としない。
「直心是れ道場」の道場はこの本来の意味の道場であって、直心ならば、ラッシュの電車の中でも車往来の十字街頭も、到る処みな道場である。
もし直心でなく、心に分別執着・煩悩妄想の雲がかかっておれば、いかに静寂清浄な山中や伽藍であろうとも、それは五欲の巷にすぎず道場というには値しない。
道場とはその場所にあるのではなく、その人の心の清浄か否かにあるのである。
なお、これを「家庭であれ、会社の事務室であれ、あるいは電車の中であれ、
どこもみな心を磨く道場だ」というように、アッサリ解してもよい。 
 
房総坐禅道場の本堂には、大きく「直心是道場」と書かれた額がかかっています。
これを見るだけでも道場に来る価値はあるのではないかと思うほど素晴らしい書です。
座禅を少しやってみても、いや長くやっていても、なかなか自分で「直心是道場」とは言い切れません。
それでもその場その場でこの言葉を思い出しながら、心を磨いていきたいものです。
 
「禅と茶の集いに」に継続して来るようになった人でも、なかなか毎日10分でもいいから座禅をするのは難しいと言っています。
でも、良い意味で毎日座禅をする習慣をつけると、それに従うように日常生活が変わってきます。 
そのための第一歩はまず自分で体験してみることです。
 
自分ひとりではなかなか続けることは難しいので、座禅をする仲間と一緒に座ることをお勧めします。 
 
「禅と茶の集い」や房総坐禅道場で座禅を体験してみませんか。
門はいつも開いています。
 
義存 合掌