禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

末期の眼 「禅と茶の集い」だより(94)

今日(2015年12月11日)は7時から45分の坐禅をしてその後は恒例の忘年会でした。
今年度になってから禅と茶の集いに参加された方も加わって楽しい時を過ごしました。    
 
文化とはいつから始まったのだろうか。
文化の背景には経済的に豊かな階層の存在があるのだが、人間の経済的な平等性とどちらを優先すべきかで大激論が交わされるという場面もありました。
今は格差が広がっているのでこんな話になったのかもしれません。
 
職場の忘年会ではなかなかこんな話は出てこないですね(笑)。
 
前回の読書会では、川端康成が「末期の眼」という自分の随筆で、芥川龍之介の遺書から拾った文が話題となりました。
 
唯自然はかういふ僕にはいつもよりも一層美しい。
君は自然の美しいのを愛ししかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。
けれども自然の美しいのは僕の末期の眼に映るからである。 
 
川端は、そのあと「いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。
いかに徳行高くとも、自殺者は大聖の域に遠い」と書いています。
しかし、川端はノーベル賞受賞4年後に自殺しています。
どういう心境の変化があったのでしょうか。
 
ところで、芥川は、「自然の美しいのは僕の末期の眼に映るからである」と言っていますが、そうでなくても自然の美しさをより感じられることがあります。
 
それは坐禅の後です。
2、3日でも道場にいて坐禅に集中しているとあるとき今までとは全く違った風景を見ることができます。
これは私自身の体験でもあり多くの人が体験していることです。
 
特に見性直後などは世界がガラッと変わります。
思わず、世界はこんなにも美しかったのかと叫びたくなる気がします。
別に末期を待つ必要はありません。
これ以上は体験の世界ですし、私なりの体験と言ってもまだまだ浅いと思うのでとても言葉にはできませんが、坐禅を続けている人は何らかの素晴らしい体験をしているのではないかと思います。
 
他の人に坐禅をすすめるのも、多くの人とこの素晴らしい宇宙を分かち合いたいからだと思います。
なんだか、ありきたりの話に落ち着いてしまったような気もしますが、心の底からそう思います。
 
来週18日は、6時から始まります。
坐禅は7時半頃から始まります。途中からの参加も大丈夫です。
 
どうぞおいでください。お待ちしています。
 
義存 合掌