禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「調息山」登頂のためのガイドマップ(4)

㉑視覚の問題
天台大師の『天台小止観』には「次にまさに眼を閉ずべし。僅かに外光を断ぜしむるのみ」とありますが、作者不詳の『坐禅儀』には「目は須らく微しく開き 昏睡を致すことを免れしむべし」、又道元禅師の『普勧坐禅儀』には「目は須らく常に開くべし」とあります。ですから禅宗以外の処では、坐禅の時に眼を閉じるという指導もあるかもしれません。

眼を閉じないのは、前記のように精神の昏沈(眠くなること)を防ぐ技です。しかし一方では視覚(眼の働き)の問題は、禅修行においてはとても重要な事柄を提起しているのです。皆様も御承知のように、「如来は眼に仏性を見る」(『涅槃経』)、「直指人心 見性成仏」(『六祖檀経』・『伝心法要』)、「正法眼蔵」(道元禅師)等の表現は、禅修行の根本問題に視覚が関与していることを示しています。この話題は、いずれ別稿で検討されます。

ここでは、坐禅の時の眼の在り方は、通常に使っている眼の在り方とは異なっていることを指摘しておきます。通常ヒトは、眼を「対象を認識するための道具」として使っています。そのためには、左右の眼で物を立体視できるようになるため、焦点化する技を生後間もないころから習得していきます。(焦点化→立体視→陳述的記憶の貯蔵庫から連想の素材を発現→後頭連合野又は側頭連合野で対象物を認識(脳科学では、Whereと Whatとに関与する回路が証明されています)する、というのが成長した脳で起こっている現象です)
生まれたての赤ちゃんは、物を焦点化して見ることは出来ません。
(以上視覚の生理学についての話題も又大変興味深いので、別稿で取り上げられます)

坐禅が身に付いてきますと(このガイドマップでいえば、五合目位まで進めば)、眼は焦点化するのを放棄し始めます。坐禅の時、体性感覚へのみ精神エネルギーが向かいますので、眼が焦点化する方向に向かう精神エネルギーが減弱乃至零になるという訳です。
その結果眼は対象物を認識することを放棄し、それによって眼の前のことが気にならなくなるのです。

初心のころ、畳などの模様がいろいろな物に見えたり、光や虹のような物が見えたりしますが、それらは「焦点化しない眼」に至る途中の段階で起こる現象といえます。
しかし眼の前の対象物の認識から解放された眼ですが、視覚情報が全て遮断されるわけではありません。
結論的にいえば、坐禅の時の眼は、焦点化・立体視以前の眼の使い方、つまり生まれたての赤ちゃんの眼に近づくのです。
赤ちゃんの眼は、左眼の視線と右眼の視線とは平行して交差しない眼、つまり平行視の眼なのです。(生まれたての赤ちゃんの眼では、通常の眼と異なった視覚経路になっていることが、既に発見されています。これは1974年Bronsonによって原初的視覚経路と名付けられました)(この経路は哺乳類以前の段階で成立したことが後に解りました)平行視の眼の場合、正面にある物はまだ認識することはできないのですが、視野内の動きに対しては、反応します。

ですから坐禅のとき、特に五合目小休止 水溝と赤丸とに繋意や六合目大休止 赤丸と上になった足のアキレス腱又は脹脛(ふくらはぎ)で身体の中心線上にくる部位とに繋意するとき、視野を横切る物(者)に反応しても不思議ではないのです。更に補遺1で述べる椅子での坐法の場合、通常の坐禅の場合より眼の位置が高くなり視野が拡大しますので、以上のことを感じ易くなるでしょう。仮に眼が視野内の動きに反応したとしても、既に連想遮断の技を十分に身に付けていますので、ほっとけば元の繋意の状態に戻ります。
㉒痛みの対処
私は短足で且つ大腿部が太いので、坐禅の時の痛みは今でも苦になります。初心の頃、結跏趺坐で15分位で足関節が、30分位で膝関節が、45分位で股関節が痛くなってきました。股関節まで痛みが及ぶと、これはとても耐えられないと思いました。私は、死ぬのが怖くて坐禅を始めたのですが、こんなに痛いんじゃ、死んだほうがましだと何度も思いました。しかし接心会での坐禅を重ねて行く内に、長時間の坐禅も出来るようになってきました。

以上のような体験から申しますが、公案工夫の時には痛みを感じるのはそれ程強くないのですが、公案工夫を離れて体性感覚に繋意して行きますと、痛みも又感じ易くなります。六合目で述べます「足心」や「失眠」は比較的痛みに耐える力を与えてくれますが、これらの部位でさえも接心会などで長時間坐禅をし疲労が溜まりますと強い痛みを生じることがあります。このような時、痛みに比較的耐えられる部位があります。左右の足の脛骨側の側面の「太白・公孫・然谷」のライン上に痛みを置き換えると比較的耐えられるようになります。参考にしてみてください。

更に取って置きの部位が二つあります。
その第一は、十合目 只管打坐1「只々赤丸に繋意」する技法です。
この場合は、痛みが出現する前から、赤丸だけに集中して余念を入れない(あたかも痛みを引き起こす回路に引き込まれるのを防ぐかのように)ことが重要です。

第二は道元禅師の云われた「左掌に心を安んぜよ」という技法です。
この技法はとても重要な意味(宗旨)を内包していますので、別稿で詳しく触れられる予定ですが、ここではその方法だけを紹介しておきます。
法界定印で、左掌だけに繋意するのは結構遣り辛いものです。
先ず両手を股の上に置き、左手を表に右手は伏せたままにし、左掌に珠がのっかっているかのように感じています。ついで徐に法界定印を作って行きますが、その際に左親指を少し突っ張り、親指から左手の労宮にかけての緊張感に繋意します。それから左親指を支えるという感じで、右親指を軽く添えます。このようにして「左掌に心を安んぜよ」を是非体験してみてください。この時左肩や左肘が上がったり突っ張ったりしても気にしないで下さい。
左掌の上に珠がのっかっていることに親しんできましたら(入浴中に左親指を立てたまま左手をお湯から出して、左掌から水蒸気が上昇するのを感じる練習も効果的です)、左手指の腹全体から左掌へ、そして左の労宮に向かって風が流れるような感じを味わってみてください。この風の力によって痛みが吸い込まれ、消えていく感じが掴めます。
このような体験を通して、自分の苦悩を全て吸い込んでしまうような働きが、この左掌に含まれていることを味わってみてください。

㉓椅子での工夫
補遺1で椅子による坐法について改めて述べますが、椅子の場合⑬で述べました鉢巻効果は期待できません。結跏趺坐や半跏趺坐という坐法が、如何に集中力を高めるかは、椅子での坐法と比較することによって、自ずから明らかとなります。
六合目の見晴台の「赤丸と両失眠」まで到達されれば、人類が精神の集中(三昧の体得)のために、この坐法(特に結跏趺坐)を工夫したのかについての答えの一端を実感されるでしょう。