禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「調息山」登頂のためのガイドマップ(3)

⑬三合目・四合目では、内言語法(ナー・ムー法、アー・ウーン法、オー・ウーン法)を提案しています。
法界定印における繋意の部位(特に「赤丸」)を明確にすることと、野口三千三氏の考え方を参考にして内言語と呼吸と身体各部位の感覚とが一体になるようにということを目的にして、これらの言葉が選ばれました。
ここでは、「南無」「阿吽」「唵」の持っている意味やイメージとは関係なく、只々身体の各部位との親和性のみに集中してください。

⑭五合目と六合目と七合目には重畳という技法を示しています。
重畳とは、「赤丸」と他の部位とに同時に繋意するということです。
呼吸によって二つの部位の感覚に強弱があっても気にしないで進めてください.
重畳という技法を提案したのは、「随息」のときに連想活動(雑念)を遮断するのに有効だからです。

二合目では「随息の前期」が示されていますが、この段階での雑念の出所を詳細に見てみましょう。当初は呼気の時に雑念は遮断し易く、次いで吸気の時にも遮断できるようになります。しかし呼気と吸気、吸気と呼気との切れ目にポット出てくる雑念を遮断するのは容易ではありません。
あたかも鼠が部屋の隅の穴からチョロチョロと出てくるようなものです。そこでこの穴を塞ぐ技法として、「赤丸」以外の部位の感覚(「赤丸」より広範囲の感覚)を利用するのです。しかし広範囲の感覚のみに繋意しますと、意識はまるで糸の切れた凧のようになって昏沈して(眠くなって)しまいます。「赤丸」の感覚が尖鋭的に保持されることによって、あたかも部屋の中心の明かりが保たれているようなものです。もしこの「赤丸」の感覚が薄れていくと、部屋全体が暗くなって行くように、意識も又昏沈してしまうという訳です。(このような実例を⑬であげています)
ですから重畳の技法の体得は重要な段階といえます。それでこの体得をもって「随息の後期」としました。

⑮六合目と七合目の間に、INTERMISSIONを置きました。
私のこれまでの五十年余の禅修行の中で、坐禅をすると暫くする内にコックリコックリする人に何度か出会いました。坐禅の姿勢はそれ程悪くないし、しかも結跏趺坐なのですが。
どうしてそうなるのか、不思議に思ったことがありました。私なりの答えをそこで記してあります。
但しこの時点で述べておきたいことがあります。
私達は何かに真剣に取り組もうとするとき、頭に鉢巻をすることがあります。実際やってみると、キリット締まる感じがします。
結跏趺坐にしても半跏趺坐にしても、下半身全体があたかも鉢巻効果のように締まるのが感じられます(特に結跏趺坐の場合は左右のバランスが取れているため、程よく感じられます)。このマップの全行程においても大なり小なり下半身の鉢巻効果が影響していますが、INTERMISSIONで述べる方法では、特にそれが程よく感じられてしまい、眠気を誘発するという訳です。詳細については後述します。
                
⑯禅修行の日課の中で、坐禅というのは極めて特別な意味を持っています。洗面・食事・排泄・作務・行脚・レム睡眠・読経・提唱や法話の拝聴・公案工夫等々の日課では、イメージや言語活動が介入してきます。

しかし公案工夫をしない坐禅は、イメージや言語さえも徹底的に棚上げにしてしまうことが出来る唯一の場(覚醒時に於いて)といえるのです。
このマップでは、一合目・三合目・四合目では言語活動が入ってきます。又その他の場合でも、複数の技法を試みようとした時、その都度手順が入るたびにイメージ活動が介入してきます。
しかし五合目以降は、一つの技法に集中している間は、言語更にイメージさえも徹底的に遮断されています。
つまり五合目以降は、自伝的自己を棚上げしている状態であり、既に中核自己の領域に入っていることになります。(皆様が普段の坐禅で「うまく坐れたなあ!」と思える坐禅というのは、このレベルの坐禅が出来た時なのです。このような坐禅を何時でも何所でも再現できるようにしてください。そのためにこのマップが作られたといえるのです)

このようにして、中核自己の領域を進みながら十合目及びその別峰を目指していくのです。
だからこそ、中核自己の特徴である「いま・ここ」に徹し、自伝的自己の特徴である「不安・恐怖を起こす働き」を一時的に棚上げすることが可能となり、その結果「心を安んずる」技が体得できるのです。(ここが他の行事と違って、坐禅の最大の特徴なのですが、公案禅のみではこのことがつい希薄になりがちです)

「数息・随息・止」そして「薄紙一枚の坐禅」という具合に「調息山」を踏破して行くにつれて、確実に禅定の力がついてくるのを、ご自分で感じることができるでしょう。

体性感覚を利用してイメージや言語活動を遮断する「行」が、何故「無畏の法門」なのか、何故「よくととのえし おのれ」に至る道なのか等については別稿『脳科学の成果より』と『禅仏教の方向性』をも参照してください。

⑰このマップは、一合目から十合目とその別峰までの案内図です。
日常の坐禅では、一合目(周囲の状況から、⑧の組手が無理ならば三合目)から到達したところまでを、毎回の坐禅で試みてください。
一合目から到達した地点までの時間が短ければ、一炷香の間に何度も繰り返してください。進み方も完璧を期さないで適当なところで先に進んでください。
但し、十合目とその別峰「薄紙一枚の坐禅」を何度か体験した方ならば、三合目・四合目の「ナー・ムー法、アー・ウーン法、オー・ンー法」をそれぞれ1〜3回実施した後、登頂のためのベースキャンプである六合目に進むのが宜しいでしょう。

道元禅師の『普勧坐禅儀』にある「欠気一息(かんきいっそく)」を深呼吸と捉えてもよいのですが、「ナー・ムー法、アー・ウーン法、オー・ンー法」を「欠気一息」の具体的方法と捉えるのも一工夫でしょう。(天台大師の『天台小止観』には、「次にまさに口を開きて胸中の穢気を吐去すべし。気を吐くの法は、口を開き気を放ち、気をほしいままに出だし、身分の中、百脈通ぜざる処は悉く放ち、気に従って出ずるを想う。出でつくせば口を閉じ、鼻中に清気をいれ、かくの如くにして三たびに至れ。もし身息調和せば、ただ一たびにてもまた足る。」とあるのが、後に「欠気一息」という表現になったのです)
身体を通じての訓練で重要な事は、繰り返し繰り返し稽古をすることです。その事によって完成度・精密度が上がってきます。そしてその構え(姿勢)に入った時、常に同じ体験ができるようになります。
この再現可能という能力が重要なのです。
これに対して、公案工夫による気づき(ウン、ナルホド、ソウダッタノカ!)(覚)(大悟とか小悟と云われる)は、過去の先達者と同じ境地を公案を通じて追体験する修行ですが、往々にしてイメージや言語活動が関与してきます。そのような気づき(覚)の場合、同じテーマにおいては、最初の気づきの方が感激が大きいという性質があります。つまりイメージや言語活動が関与する気づき(覚)の場合、同じテーマだと「慣れ」という現象が起こってしまうのです。
「思い出すよじゃ 惚れよが薄い 思い出さずに 忘れずに」という俚諺があります。身体で覚える技の場合は、この俚諺のように、常に新鮮に再現できるのです。(この問題はとても重要なので、別稿『禅仏教の方向性』で再び取り上げられます)

⑱揺振について
『普勧坐禅儀』に「身相既に調いて、欠気一息し、左右揺振して、」とあります。この揺振を、一般には単に坐禅の前に、身体の位置を定めるためのものとみなし、簡単に済ませがちです。
しかし私は、これを日常生活モードから禅定モードに(別稿の表現を使うならば、自伝的自己モードから「よくととのえし おのれ」(中核自己における3つの宝物を究明する)モードに)切り替える為の重要な通過地点という位置づけをしています。
参考までに私の方法を述べておきます。三合目と四合目で述べる「アー・ウーン法」と「ナー・ムー法」を多少修正して利用しています。

まず口をあけ「アー」と口から息を吸いながら上半身を右に倒し眼は左斜め上方を見る。それから口を閉じ「ウーン」と息を鼻から吐きながら上半身を左に倒し眼は右斜め上方を見る。これを3回位繰り返す。

次に「ナー」と息を鼻から吸いながら腰・背を伸ばし眼を斜め上方(明けの明星を見る角度)に向ける。「ムー」と息を鼻から吐きながら股の上に置いた左右の手の右手を右股から右膝頭の処まで下してきて、右手の中指が畳に着く位置まで、上半身を前に曲げる。そして又「ナー」と息を鼻から吸いながら右手を右股の上に戻し腰・背を伸ばし眼を斜め上方に向ける。これを3回位繰り返す。

公案工夫の場合、しばしば師匠に提示する見解(けんげ)に行き詰ってしまうことがあります。そのような時、師匠にお会いするのがつい億劫になってきます。そのような気持ちから、徐々に道場の敷居が高くなって、遂には坐禅を組むことから遠ざかって行きます。
(折角の御縁ができたのに、勿体ない話です)
このような場合、公案工夫とは別の路線つまり「調息」のレベルを深めるということを是非試みてください。公案工夫と「調息山」登頂との複合路線でそのような難所を乗り越えて頂ければ、幸いに思います。

日常生活の上においても、仕事一筋や家庭一筋という場合に、仕事や家庭の問題で行き詰ることが往々にしてあります。そのような場合、趣味や旅行や友人との会話などの気晴らしで救われることがあるでしょう。長い人生を生き抜いていくためには、複合路線というのもなかなか捨て難いものです。

今回の話は「調息山」登頂に限ったものですが、これから提案する「歩行と発声の訓練」や「聴覚と視覚の訓練」を実践し、それなりのものを体得して頂ければ、禅修行におけるかなりのレベルまで到達できることを、私自身の体験から請け合っておきます。(この辺りの話は、別稿『禅仏教の方向性』『現代人のための禅修行の階梯』で触れられます)

⑳舌の位置について
天台大師の『天台小止観』には「次にまさに口を閉ずべし。脣歯わずかに相いささえて着け、舌を挙げて上齶に向く」、作者不詳の『坐禅儀』には「舌は上の顎を拄え 脣歯相着くるを要し」、又道元禅師の『普勧坐禅儀』には「舌 上の腭に掛けて唇歯相着け」とあります。
実際やってみますと、舌の上腭に着く位置が、繋意の部位によって微妙に異なってくるのが解ります。
五合目以降については、カタカナの表記により、舌と上腭の関係を示してあります。参考にしてください。又皆様の実践によって、もっと適切な表記があれば教えてください。