禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

「調息山」登頂のためのガイドマップ(2)

公案工夫を主とする臨済宗では、一生かかっても公案体系を踏破することが容易ではありません。そのためか顧みられることは少ないのですが、古来から鼻端・臍下丹田(「気海」)・足の土踏まず(「足心」)や踵(「失眠」)などに意を繋ぐことによって、禅定の力を深める工夫がなされていました。(『荘子』「至人の息(いき)は踵(くびす)をもってす」とあり、又白隠禅師がひどい禅病にかかったとき、白幽真人から指導を受けた内観法に、「気海」及び「足心」への繋意が記載されています。更に道元禅師の「左掌に心を安んずる」というのも、この延長線上にあるのです)
 
私のマップでは、身体のある部位に繋意するということを多彩に展開しています。繋意の部位によって、それぞれ独特の表情というか音色が出現してくるからです。このような体性感覚の重視がどのような意味を有するのかについては、後ほど触れられます。又別稿『脳科学の成果より』や『禅仏教の方向性』でも検討されます。

ちなみに『坐禅用心記』では、「若し病有る時、心を両趺の上に安んじて坐す。心、若 し昏沈する時は、心を髪際眉間に安んず、若し散乱する時は、心を鼻端丹田に安んず。居常に坐する時は、心を左掌の中に安んず」と、修行者の状態によって繋意の部位を変えることを提案しています。ここでいう「両趺」とは、両足(脚)のことです。「髪際眉間」についてはこのマップでは触れていません。「鼻端丹田」については五合目 木陰で小休止の処で、「左掌」については⑳と八合目と別稿『禅仏教の方向性』で触れられます。

⑥繋意について

繋意という言葉は、公案禅を主とする臨済宗ではあまり顧みられませんが、これからの禅の修行の在り方を考えると、極めて重要な言葉です。「注意=意を注ぐ」という言葉がありますが、「繋意=意を繋ぐ」という言葉の方が体性感覚をより長く保持しているという意味が込められています。

繋意の技によって、中核自己にこの身心を委ねる、中核自己の存在感と現実感に安住する、そして自伝的自己を完全に棚上げにする技法を体得する、という道が開けてくるのです。(但し自伝的自己を棚上げにする技法が内包する問題点については,七合目 白骨の坐禅の処で検討されますので参照してください)

夏目漱石が『門』という小説のなかで、自分自身が人生に悩み、鎌倉の円覚寺に於いて坐禅公案工夫の修行をした時の思いを、主人公 野中宗助の口を借りて次のように述べています。


「法華の凝り固まりが夢中に太鼓を叩く様に遺って御覧なさい。頭の巓辺から足の爪先までが悉く公案で充実したとき、俄然として新天地が現前するので御座います」という宜道(宗助のお世話をしたお坊さんの名前。両忘庵釈宗活老師がモデルとされています)の忠告に対して、「宗助は自分の境遇やら性質が、それ程盲目的に猛烈な働を敢えてするに適しない事を深く悲しんだ。・・・彼は平生自分の分別を便に生きて来た。その分別が今は彼に祟ったのを口惜く思った。そうして始から取捨も商量も容れない愚なものの一徹一図を羨んだ。もしくは信念に篤い善男善女の、知慧も忘れ思議も浮ばぬ精進の程度を崇高と仰いだ」という状況に陥ってしまうのです。そうかといって彼は自分の抱えている悩みをキリスト教や他力の教えによって解決することもできないのです

そして「彼自身は長く門外に佇立むべき運命をもって生まれて来たものらしかった。・・・彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」と落胆するのです。

 ここに現代人が公案工夫に立ち向かった時の悩みが凝縮しています。一方では死の恐怖や人生の諸問題に悩まされ、一方では唯一絶対なるものを簡単に信じきれないし、又無我夢中になって一つのことに打ち込むことができない不幸な性(さが)に苦しむのです。

明治・大正期の代表的な知性の一人である漱石のような人物に対して、一気に公案禅の修行の場に放り込むのではなく、禅の修行を一歩一歩確実に進めるための手立てとして、繋意の技法を深める事を指導していくのも、これからの禅の修行の在り方を考える上で重要なことだと思います。

⑦ 脳科学者のアントニオ・ダマシオは、脳科学の立場から自己を発達史的にみて、2種に分けています。彼の自己についての概念は、禅修行における自己の捉え方を整理するのにとても役に立ちますので、それを参考にして説明していきます。
 彼は、胎生期から誕生直後までは神経細胞のネットワークが未発達のため「いま・ここ」のみの自己であり、この自己はイメージ及び言語の記憶が集積される前の自己とし、これを「中核自己」と定義しました。

 一方生後、視覚や言語の活動が盛んとなりイメージや言語を操る力、そして過去・現在・未来を感じ考える力を獲得した自己が生後18カ月頃までに成立し、その後強化・修正されていくといっています。この自己を「自伝的自己」と定義しました。(イメージ及び言語に関する情報は、誕生後に大脳辺縁系の中の記憶細胞群に集積されます)(ヒトは大脳辺縁系の中の記憶細胞群に集積されたイメージ及び言語に関する情報を参考にして、次の行動を決めていきます。 
     
そのうちに行動が一定のパターンになったとき、それを個性とか自我とかエゴつまり「自伝的自己」というのです)
以上のことより、禅修行の目的の一つは、「調身」及び「調息」の「行」によって、「自伝的自己」を棚上げにして「中核自己」に備わっている宝物を究明することと、考えてよろしいと思います。(結論を急ぎすぎの感もあるでしょうが、このガイドマップを踏破して戴ければご理解してもらえると思います)(関心のある方は、次稿『禅仏教の方向性』をも参照してください)
⑧ アントニオ・ダマシオの貢献の中で禅の修行との関係から見ますと、今一つ重要なことがあります。それは情動と感情とを明確に区別して定義をしたことです。
 従来の精神医学や心理学において、怒り・悲嘆・不安・恐怖・恨みなどを情動とし、喜・哀・楽などをより高等な感情として区別していました。そして情動の座を大脳辺縁系に、感情の座を前頭葉にあるとしていました。(前稿『脳科学と禅』の図を参照してください)
     
しかし彼は、従来高等な感情とされていたものでも、イメージや言語の記憶が関与する、つまり大脳辺縁系が関係する限りは、情動であると定義しました。
     
一方感情とは、大脳辺縁系とは直接関係がなく、体性感覚と密接な関係があり、その座も一次体性感覚野の近くの二次体性感覚野又は島皮質であるとしたのです。(体性感覚は、触・圧覚、痛覚、温・冷覚、深部感覚等の総称です。脳の役割分担という点からみますと頭頂葉の中心溝の前が随意運動の座である運動野で、後ろが一次及び二次体性感覚野です)(前稿『脳科学と禅』の図を参照してください) 
      
彼の感情と情動との区別は、これからの人類において課題の一つである「感情の育成」という大事業の取っ掛かりになると思われますが、禅の修行という観点からみても大きな意味を有しています。
      
耕雲庵立田英山老師は『人間形成と禅』という著書の中で、禅修行の目的は、「人生を正しく生きる」・「人生を楽しく生きる」・「人生を仲よく生きる」(これをつづめて「正しく・楽しく・仲よく」といいます)ことであると述べられています。
      
このうちの「楽しく」については、「“それでよいのだ、それだけのこっちゃ!”と、われとわが身に合点々々することであります。
 こういうと、一見 甚だ消極的なあきらめのような言葉で、若い人々の中には、反撥さえ感じる人もあるかも知れませんが、実はそうではなく、これは非常に高次の精神内容に属することで、人間形成の又重要な一面です。禅家の方でいう大悟徹底というのがそれです。これが、ほんとうの楽しい満足で、これならこの世に於て、そして自分の一生の間にも達し得られる幸福感であります」と、書かれていらっしゃいます。(『人間形成と禅』21頁)
      
一般に日常生活で「楽しさ」というと、「人間関係がうまくいっている」・「新車を買った」・「宝くじに当たった」・「子供が志望校に進んだ」・「趣味の世界に興じる」など、対象物が存在する「楽しさ」をいいます。しかし日常生活における「楽しさ」は、イメージや言語活動が関与していますので、アントニオ・ダマシオの説では、情動の範疇に入るのです。
      
それに対してどなたかの句に「物もたぬ 袂はかるし 夕涼み」というのがあります。このような「物もたぬ」という「楽しさ」が耕雲庵英山老師のいわれる「楽しく」の中身なのです。
      
皆様はこのガイドマップの十合目の別峰 「薄紙一枚の坐禅」を体得されれば、耕雲庵英山老師のいわれる「楽しく」をオンノリと味わうことができるでしょう。そしてアントニオ・ダマシオがいう「体性感覚と密接な関係があり、その座も一次体性感覚野の近くの二次体性感覚野又は島皮質」に存在する感情というものの実体を掴むことができるでしょう。(詳細は次稿『禅仏教の方向性』を参照してください)

⑨初期の段階から数息と随息との違いを御自分で確認しながら体得して頂くために、「息を数える」ということについて呼気のみにて行い、ヒトーツゥー、フターツゥー・・・トーオゥーそして又ヒトーツゥーに戻る方式を薦めています。おしまいのゥーによって呼気は普通より長くなりますし、息を吐いていきますと自然と気海(臍下丹田)に意識が行きます。

ことばと身体との関連性については、野口体操の創始者である野口三千三氏に優れた著述があります。私がヒトーツゥー、フターツゥー方式や三合目・四合目で提案する内言語法(ナー・ムー法、アー・ウーン法、オー・ウーン法、いずれも言葉を発しないという意味で内言語法としました)を工夫したのも、野口三千三氏の著述がヒントになっています。

⑩一合目・二合目では、臨済宗のお寺で禅の初心者に対して指導している組手を少しアレンジしたものを利用しています。法界定印における繋意の工夫は難易度が高いので、初期の段階ではこの組手の方が解り易いからです。右手の第一指と第二指とでリングを作り、他の3本の指は軽く伸ばし下腹部に当てます。左手の第一指だけを右手のリングの中に入れ、他の4本の指で右手を上から軽く押さえるというものです。この組手では、腹式呼吸に成り易くなります。(法界定印の場合はそれに比して胸郭が広がります)

⑪呼吸について
ヒトが生きている限り意識することなく寝ても覚めても呼吸運動は絶えません。ですから呼吸は不随意運動ですが、随意的にも行うこともできるところに特殊性があります。この点が他の自律神経の働きである血圧や心拍などと違うところです。この呼吸を随意的にコントロールすることによって、本来自分の意志によってコントロールできない血圧・心拍等を間接的にコントロールできることが証明されています。呼吸は意識的にしようとすると、却って苦しくなってきます。

意識しながらも、楽な呼吸をするというのは結構難しいものです。坐禅の時、胸式呼吸が良いのか、腹式が良いのかという議論があります。⑧に示した組手の場合は、法界定印の時と比べて胸郭が狭くなりますので、腹式に成り易いのですが、法界定印の場合は、後ほど実習されるように、繋意の部位によって変化します。しかし胸式とか腹式とかという区分けは、坐禅の呼吸にはあまり当てはまらないように思います。むしろ坐禅時の呼吸では、胸部や腹部の動きは比較的小さく、只横隔膜の上下運動に意識が向かう傾向が強いようです。

この事は特に後に述べる六合目 重畳法10 そして「息(そく)の呼吸」で感じられるでしょう。という訳で、坐禅時の呼吸は胸式とも腹式とも決められないとしておきます。

今一つよく議論されるのは、「出来るだけ長い呼吸が良い」とか、「入息短 出息長」とか「竹節呼吸が良い」とかという問題です。結論的に言えば、「無理をしない、その人に適った楽な呼吸がよい」ということですが、このマップのゴールが十合目の「止」及びその別峰の「薄紙一枚の坐禅」の体得ですので、出来るだけ早くこのゴールに達することに主眼を置いてください。


⑫ ⑧の処で、法界定印における繋意の工夫は難易度が高いといいました。そこで「赤丸(セキガン)」という部位を提案しました。場所は、手の第一指の尺骨側の爪の先端部と皮膚との境、針等極細い物を抓む時に用いる処です。この部位には経穴(ツボ)名が付いていませんので、私の命名によるものです。2006年5月京都の花園大学で開かれた『Buddhism and Psychotherapy』という国際カンファレンスで、「組手を法界定印にした時、身体の中心線上に位置するので意識し易い」「針等の極細い物を抓む時に用いる処で、元々鋭敏な部位である」「両親指の接点を赤丸にすると、両親指は自然と臍下丹田(「気海」)へと向かい且つその部位に集中することによって、眠気に抵抗する力が強まる」ということで、赤丸を紹介しました。

その後、道元禅師の『正法眼蔵 坐禅儀』の中の「左手を右手のうへにおく。ふたつのおほゆび、さきあひささふ。両手かくのごとくして、身にちかづけておくなり。ふたつのおほゆびの、さしあはせたるさきを、ほぞに對しておくべし」という文や道元禅師の孫弟子の瑩山禅師による『坐禅用心記』の中の「両手の大指は相?えて身に近づけよ、?指の対頭は当に臍に対して安ずべし」を見て、私の提案の意義を再確認しました。(両手の第一指を接したまま臍に向かわせようとすると、必然的に両第一指の接点が「赤丸」の方向に移動せざるをえないのです)

「赤丸」への繋意の具体的方法として、この部位に温かさ・拍動・シビレ・時には痛さ(これらは全て身体のある部位に意を注ぐ時、その部位の血流が増加するということの結果です)を感じるようにしてください。もし感じにくければ、「赤丸」の処に爪楊枝等で刺すことによってその部位の感覚が明確になります。

当初「赤丸」への繋意は難しいので、その時には「赤丸」に力がギューッと入るようなことがあるでしょう。(これを「ギューッと赤丸」と言っておきます)しかし少し慣れ親しんできますと、両赤丸を中心にして半径3?5mm程度位(あたかも画鋲の頭の面積位)の部分にボンヤリと温かかさや血液の流れを感じられるようになります。(これは「ボンヤリと赤丸」としておきます)

この「ボンヤリと赤丸」の場合は、「ギューッと赤丸」よりは呼吸が自然とゆったりとして長くなります。

更にもう一つの工夫としては、「気海(臍下丹田)」に向かって、画鋲の先の細い針を両赤丸で1?2mm程度押し込むような感じを保持するのも一方法です。(これは「押し込む 赤丸」としておきます)「ギューッと赤丸」が相応しいのは、このマップの五合目 道から少し離れ、木陰で小休止の、水溝と赤丸とに繋意の処です。

「ボンヤリと赤丸」が適するのは、三合目から五合目まで、六合目の重畳法4、六合目 見晴台で大休止の重畳法6と10、七合目とに於いてです。

そして「押し込む 赤丸」が適するのは、六合目重畳法5、六合目 見晴台で大休止の重畳法7と8と9、そして十合目 「止」の体得の処です。更に言えば、八合目と九合目と十合目 別峰(薄紙一枚の坐禅)に於いては別の部位に繋意するため、赤丸とはあまり関係しないということになります。
 
以上のように同じ赤丸に繋意するといっても、いくつかの方法があり、更には繋意の部位によっては、赤丸に拘ることもなくなるということになります。

つまりそれぞれの部位の体性感覚には、独特の音色(ねいろ)があり、それを味わう訓練をしていることになります。

このような訓練によって、いずれはアントニオ・ダマシオのいう体性感覚と密接な関係のある「感情」を味わいそしてそれを使いこなすということが可能となるのです。

このマップには、「赤丸」の他に「気海」「命門」「雲門」「内迎香」「水溝」「労宮」「足心」「失眠」等々の経穴名に繋意することを取り上げています。経穴名を記すことによって、どなたでも位置が確認でき、繋意するのが容易になるでしょう。(繋意の部位は末尾に載せています)