禅と茶の集い

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「調息山」登頂のためのガイドマップ(1)

「調息山」登頂のためのガイドマップ 太田東吾 Ver.3.6,    06 /2017

*これから述べますことは、全て私の体験・体得したものを根拠にしています。たとえ諸先輩方からの引用であっても、それを鵜呑みにせず、私の観点からみて吟味し取捨選択をしています。
私の意見は我流のように見られるかもしれませんが、皆様がこのガイドマップに従って、皆様ご自身の身体を通して追体験されることによって、決して我流ではないことが証明されるでしょう。
私の提供するプログラムをマスターした後は、皆様の手で更なるバージョンアップをして頂ければ、提供者としては無上の喜びです。

*参考にした主な書物を挙げますと、村木弘昌氏の『釈尊の呼吸法』、天台大師の『天台小止観』、作者不詳の『坐禅儀』、道元禅師の『普勧坐禅儀』及び『正法眼蔵 坐禅儀』、瑩山禅師『坐禅用心記』、耕雲庵立田英山老師の『数息観のすすめ』等々です。

*耕雲庵立田英山老師の『数息観のすすめ』は、私の大学生時代から大変お世話になった本です。この本では、数息観のレベルを前期・中 期・後期の三段階に分け、「後期では、もう呼吸などは意識せず、従って息を数えるのでもなく、そういうことは一切忘れはててしまうのです。忘れるといっても、数息観はしているのですから、ただ放心状態になっているのではありません」と書かれています。
つまり後期においては、息を数えないということですが、ここに至る道筋が今一つという感じをズーッと持ち続けていました。
それで次のような観点から、自分なりのマップを工夫したのです。

①禅の著述としては古いものである『釈尊の呼吸法』と『天台小止観』における「数息」・「随息」(『釈尊の呼吸法』では「相随」)・「止」という用語に沿って説明するほうが、一般的には理解されやすいと考えたこと。

②従来の定義とは異なるかもしれませんが、「数息」・「随息」・「止」を以下のように、定義すること。
      
「数息」とは、坐禅という姿勢で、最も単純な連想活動の一つである「息を数える」+繋意の部位の体性感覚+呼吸運動によって、複雑な連想活動(雑念)を遮断する「行」である。
「随息」とは、坐禅という姿勢で、繋意の部位の体性感覚+呼吸運動によって、連想活動(雑念)を遮断する「行」である。(ここでは、最も単純な連想活動の一つである「息を数える」ことさえも利用しなくても良い状態になっている)
「止」とは、坐禅という姿勢で、只々「赤丸(セキガン)」という部位の体性感覚+呼吸運動によって、連想活動(雑念)を遮断する「行」である。
以上の3つの技法に共通するのは、坐禅という姿勢、呼吸運動、体性感覚です。このうちの最初の2つはごく当たり前のことですが、体性感覚という重要な要素が見落とされる傾向にあります。
それは、後述するように法界定印のときに繋意の部位が、従来の指導ではなかなか明確にすることができなかったということも関係していると思います。

③「数息」・「随息」・「止」の順で難易度が高くなっていきますが、それに応じて禅定の力も深まっていきます。坐禅とは、体性感覚(それも出来るだけ微かな)を利用して、連想活動を抑え最終的には自伝的自己を棚上げにする作業とも言えます。(この点については別稿『禅仏経の方向性』で取り上げられます)

曹洞宗では「只管打坐」という言葉をよく使用しますが、福井県小浜の発心寺の原田祖岳老師系以外では、数息・随息・只管打坐をきちんと区別して指導している処は少ないと思います。
原田祖岳老師系でいう「只管打坐」と、私の定義する「止」とは似ていると思いますが、指導方法にはかなり差があるでしょう。

④物理学の法則に、同じ物質でも高い位置にある物の方がエネルギー量が大きいというのがあります。
我々が日常使っている精神状態においては、脳が興奮すればする程、精神エネルギー状態が高位の状態にあり、それより低位の精神エネルギー状態にある各種の刺激情報を無視してしまいます。

例えば、怒りや不安で平常心を失うとか、悲しみや失意の時に食欲を促す身体からの各種の情報(血糖値の低下等)を無視してしまうのも、このような理由によるものです。③で「数息」・「随息」・「止」の順で難易度が高くなっていきますといいましたが、言い換えれば禅修行の一つの目的が、精神エネルギー状態を出来るだけ低位の状態に置くということだといえます。坐禅時の代謝量の測定や脳波の研究によって、坐禅時は、起床直後や休息状態更には達人の場合は睡眠時より、低位の精神エネルギー状態にあることが、既に証明されています。
精神エネルギー状態を出来るだけ低位に置くことによって、今まで気が付かなかった(無視していた)物が見えてくるのです。

芭蕉の句「よく見れば 薺花さく 垣根かな」はこの辺の消息を示しています。